□ 月のきれいな夜だった 2 □














なんでおれはここにいるんだ?

たっぷりと湯の張った風呂につかって、ぼーっとしながら、イルカは何度目かの同じ疑問を抱いた。
強張っていた筋肉が、熱い湯でほどよく解れて、このまま寝入ってしまいたくなるほど心地いい。

だが、反対に意識の方は冴えきっていた。

まだ、身体のそこかしこに戦闘の名残がくすぶっていて、頭上から滴り落ちる雫にも敏感になってしまっている。
鋭敏になった感覚は、家の中で動き回る銀髪の忍の気配もまざまざと捉えていた。
水音も聞こえるから、おそらくイルカのために茶でも用意しているのだろう。
そんなことする必要ないのに、とイルカは思う。
偶然行き会った相手とはいえ、里の居住区近くまで敵忍の侵入を許してしまったのはイルカだ。久方ぶりの戦闘で勘が鈍っていたことなど言い訳にならない。

本来ならば、叱責されても文句は言えないところだ。

内心身構えていたイルカを、だが、カカシは咎めもせず、それどころか匂うように華やかに笑いかけた。
家へ寄りませんか、と誘ってきた。

「…へんなひとだな…」

未熟な中忍を自宅に招くなんて、カカシは変わっている。
変わっているといえば――そう、あの姿も。

女物の真白の襦袢を、ふわりと羽織っただけのカカシに、イルカは見惚れた。
一瞬、誰だかわからなかったほどだ。影から月光の下へ現れたあの人は、まるで彷徨うなにかの精霊のように幻めいて、透明で、うつくしかった。

初めて目にする秀麗な容貌にも驚いたが、近寄ってみると、カカシも呆然と眼を見開いているのがわかった。その目にはありありと人間くさい表情が浮かんでいて、彼が幻などではない、生きた血の通う人間なのだと教えてきた。
微笑んだ顔は、見たこともないほど艶っぽくて――…。

狼狽しながらも、その艶麗な笑みに逆らえず、ここまでついてきてしまったけれども。
よくないよくない、とイルカは頭からすっぽり湯船につかる。

銭湯ならマナー違反だ。だがイルカは温かいお湯に沈むのが好きだった。
先ほどの情景を思い出して赤くなった顔を誤魔化すように、浴槽の底に後頭部を押し付ける。

よくないよくない、よくない。

気のせいだ。闘って緊張したアタマが、錯覚を起したのだ。

そうでなければ、自分と年の変わらぬ男に鼓動が早くなっただなんて、認められそうもない。
いくら綺麗な容貌でも、あれは男なのだから。

































ずいぶん長湯だなあ。

カカシはずずっとお茶をすすった。
淹れたお茶が冷めてしまうかもしれない。これは新しく淹れ直すか、と立ち上がったときに、ガタガタと風呂から上がる音がした。

「どうも…浴衣、お借りしました」

ほんのり顔を赤く染めながら、髪を拭き拭き歩いてきたイルカに、カカシはぽかんと口を開けた。

「イルカ先生…」

「なんですか?」

「いや…その、髪下ろすと雰囲気変わりますねえ…」

幼くなるというか、やさしげになるというか…。続けようとして、カカシはあーうー口ごもった。
女に対してならばともかく、あまり褒め言葉ではないだろう。

そう思って口を閉じたのだが、きょとんと見つめ返してくる黒い瞳にそれこそ二の句が継げず、お茶でもどうぞと湯のみを差し出した。

「…ちょっとぬるくなりましたから、ちょうどいいはずです」

「ありがとうございます…」

カカシのために仕立てられた茄子紺のあっさりした浴衣が、ひどくイルカに似合った。
カカシが着ると、どこか遊び人風になるのに、どうしてイルカだと凛々しく見えるのだろう。
先ほどまでのぴりぴりした気配があとかたもなく綺麗に消えていて、その落差にもカカシは驚いた。

一片の隙もなく身構えていた忍の名残がどこにもない。いっそ空々しいほどに。
そこにいるのは、あくまでのほほんとした中忍で、隠している――といっては聞こえが悪いが――実力の片鱗さえ感づかせない。

まとう空気が違いすぎる。
かえってイルカの強さが伝わるようで、カカシは微かに寒気を覚えた。

しばらく茶を啜る音だけが響いて、ほうっと満足気に息をはき、イルカはおかしそうに笑った。

「カカシ先生って、変わってますねえ」

「…は。え?」

イルカに吸い寄せられていたカカシは、目を瞬かせた。

「こんなふうに簡単に他人を家にあげる方だとは思いませんでした」

あ、深い意味はないですよ? 気安い方なんだなあと思って。

「そういえば、あんまりないですねえ。……イルカ先生が三人目かな」

自分でもびっくりしながらカカシが言うと、イルカも目を丸くする。

「そうなんですか? じゃあ…やっぱり、興味を持たれたから?」

だから自分を家に誘ったのか。その意味はすぐにカカシもわかって、緩んでいた顔がたちまち引き締まる。
ゆったり過ぎていた時間まで、研ぎ澄まされるように。

「もちろん、それはありますよ。――イルカ先生は、火影さまの『手』なんですか?」

「…違うと言っても信じてもらえなさそうですね」

「あたりまえでしょう。あんな戦闘見たあとじゃ」

ちょっと困ったようにカカシの視線から目を外し、黒髪の中忍はぽりぽりと鼻の傷をかく。

実際、まいる。誘われて素直に赴いた自分も自分だけれど、こうまで直接に問いただされると、言ってはいけないことまでバラしてしまいたくなる。
カカシにはそんな魅力があるし、だんだんと魅かれているのがわかっているから、なおさら気をつけないといけない。

内心はおくびにも出さず、イルカはのんびり湯のみを包み、

「手は手でも、『孫の手』といいますか…」

「はあ?」

それは、背中をかく、あの道具のことか。

「痒いところに手が届くっていうでしょう。そんなたいそうなもんじゃないんですよ、ほんとに。雑用ばっかり押し付けられてるし」

「火影さまの雑用を任せられる忍が、この里に何人いるっていうんです」

「ですから、そんな役職みたいな位置の仕事じゃないんですって。仕事とも言えるかどうか…。火影さまが面と向かって片付けられない、困った事が起きると、 大体俺に回ってくるんです。裏の仕事なら暗部や上忍に回されますけど……例えば、忍の夫婦同士の離婚問題なんか、カカシ先生調停したいと思います?」

「……りこんもんだい?」

あまりにも縁がない話題で、カカシはすっとんきょうな声を上げてしまう。
そうです、といやにマジメな顔でイルカが頷いた。――カカシが戸惑っているうちに、言いくるめてしまえ。

「忍の婚姻なんて、一般人の感覚からはずれまくってますからね。数ヶ月も会わないなんてザラだし、奥さんがくの一なら身体を使った任務も当然あります。 それを承知で結婚するんですから、当然情は深いわけです。
だから、一旦こじれ始めると、もう――めちゃくちゃですよ。俺は一度、真剣に殺し合いをしている 夫婦の仲立ちをしたこともありますよ」

カカシは初めて聞く話だった。目をぱちぱちさせて聞いている。

「普段、忍耐に忍耐を重ねる仕事してますからね、忍者って。爆発するとすごいのなんの。皿投げる、なんてかわいいもんじゃないんですから。
クナイの応酬でしょ、 術はぶちかますし、首絞めるし近所は焼け野原みたいになっちまうし。――あれ。なんの話でしたっけ。…そうそう、だからそういう問題が起こったときだ」

俺の出番なわけです。むしろ情けなさそうな顔で、イルカは笑った。

「事態がけっこう複雑だったりすると、火影さまもそんなことにかかずらってる暇なんてないし。かといってそんなこと専門にやってる業者もないし。一般になら ありますけど、忍の常識やら感覚とやらと全然違ってるから、話にならないらしくて」

「…はあ」

それはそうだろうな、とは思うものの、それ以上言葉が出てこない。

実務だけを淡々とこなしてきたカカシには、そういう生活臭のする任務と関わり合う機会などなかった。想像の範疇外だ。
外勤の忍は血生臭い仕事。内勤の忍は書類仕事。それだけの大まか過ぎる認識しかなかった。

もしかして、俺、考え浅すぎだった?

カカシの考えていることなどお見通しというように、イルカは「先生の顔」で微笑んだ。
新しいことを教えられて驚く生徒を見守る顔だった。

「里内で暮らしていくって事には、そういう些末事がつきものなんですよ」

柔らかさと力強さを秘めた、その横顔。

姿勢よく、再びさめかけたお茶を啜ったところで、イルカはふと顔を上げた。
唸っていたカカシも気が付いて窓を見る。
小さな鳥が窓枠にちょこりと止まっていた。
窓を開けると、涼しげな風と共にさっと小鳥が飛び込んで、イルカの手の上におさまる。

言わずとも正体など知れていた。――式だ。
自分への急な任務かと思ったのに、イルカへ何の用だろう?

「なんですかね」

「さあ…」

解、と小さく呟くと、瞬く間に小鳥は転じて小さな紙切れとなる。綴られた文字を追っていたイルカは、はーっとため息をついた。

「…これからすぐ来るようにとのことです」

「こんな夜中に? 任務ですか」

「いや、おおかた決済書類の手伝いでしょう。月末ですからね。明日までにまとめないと、請求書が上がらないはずですから」

「…請求書?」

「任務報酬の振込用紙です。各地へ発送するんで、早めにやらないといけないんですよ。火影さまの認証待ちで、事務方も徹夜じゃないかなあ」

気の毒に、と頭を振る。今月は任務が多くて、火影さまも書類の山にうんざりなさってましたからね。やらなきゃ溜まるだけなのに。

またカカシの知らない分野だ。そんな事務的なことも忍の仕事の一部なのだと思うと、妙な気分である。決して、やってみたくはないが…。

「すみませんカカシ先生、お暇しなくちゃならないようです」

「イルカ先生が手伝うんですか?」

「手伝うというか、火影さまの見張り役といいますか…すぐにサボろうとなさいますのでね。実を言うと、事務方からの式だったんです」

「…なるほど」

デスクワークが苦手な火影が、書類から逃げ回っているのは何度も見たことがあるし、孫のように可愛がっているイルカに監視させるのが効果的なのだろう、 とすんなり納得できたのだが、なぜか何かが引っかかった。
カカシは顔をしかめたが、イルカは構わず申し訳なさそうに立ち上がる。

「すみません。浴衣、貸していただいてよろしいですか?」

カカシの頷きに嬉しそうに微笑んで、てきぱきと汚れた服を手近な袋に詰める。
ごわごわしたベストもうまく畳んで入れてしまうまで、あっという間だった。
その動作に、迷いも、急いだ様子もない。自然で、……自然すぎた。

―――だから、カカシにはわかってしまった。

「イルカ先生、あんた、はぐらかしましたね」

『急に意味のわからないことを言われた』、という表情で、イルカは首を傾げた。きょとりと。

「…うまいなあ。その顔。いや、別に裏があるとまでは言いませんがね。でも素じゃないでしょう、それ」

今度は不審そうに眉を寄せる。
全く、完璧だった。完璧だから、不自然だった。カカシの忍としての勘がそう告げている。

完璧にその場を取り繕うのは、忍のやることなのだ。うみのイルカという人間の素ではないから、それができる。

銀髪の上忍は壁にもたれかかって、にやりと笑った。やたら悪めいたその笑みは、ぞくりとするほど艶かしかった。
一瞬目を奪われても、イルカは何も言わず黙っている。不審そうな顔は崩さずに。
だが、カカシがにやにやといつまでも笑っているのに、観念したかのように肩を落とした。

「別に作ってるわけじゃないですけど…」

ちょっと顔が赤かった。

「確かにアンタは里の小さな問題事を片付けているのかもしれませんけど、それだけじゃないでしょ。アンタみたいな腕達者な忍を、火影さまが中忍のままで置いておくわけがない。 ナルトの身辺をそれとなく守るためにも、そこそこ腕の立つ忍が近くにいる必要があるしね。俺の前は誰だったんだろうと思ってました。まさか貴方だったとはね」

「一番こき使われやすい位置にいただけですよ」

「ふうん?」

「…そんなじろじろ見なくても、騙してることなんてないですってば」

「でも隠そうとしたでしょ。俺が知らない話題を持ち出して、煙に巻こうとした。
俺は直球に、なんでそんな隠密みたいなマネしてんの、って聞いてるのに」

忍者の間では、実力を故意に隠すだけでも、密偵と疑われる。
イルカは、火影の「手」と思われただけマシなのだ。闘っているところを見つかったのがカカシでなかったら、 その場で襲われていた可能性すらある。

それほど、忍の世界は嘘と偽りに満ちている。

「人聞き悪いですねえ。それにカカシ先生、忍者にあるまじき直接話法ですよ。もっと交渉術を駆使した誘導とかしないんですか?」

他国にまで名が通った上忍は、にっこりと目を弓形にして、

「誘導とか引っかけはね、自分より上手い相手には通用しないんですよ」

さりげなく、イルカを牽制した。
ぽりぽり鼻の頭をかいて、イルカは嘆息する。茄子紺の浴衣のすそを翻して、玄関へ向かった。
「言っときますけど、ほんとに、別に隠してるわけでも何でもないんですよ?」

「なんで? もったいない。実力に見合った任務がしたいとか思わないの?」

正直すぎるカカシの疑問に、澄んだ瞳がやわらかく見据えてきた。

「……それはね、カカシ先生。戦場で生きてきた人だから言えることです。里内の任務では、優劣はないでしょう? あえて誇示することもない。完璧な統率を必要とするような任務 はないからです。上の者も下の者も、同じことをします。だから、力を見せる必要もないんです。俺は、そういう任務をすることの方が多かった」

芋ほりやお使い、迷子の猫探しには、切り込み隊長もしんがりもない。
誰かが多く危険を背負うこともない。ただ全力を尽くすだけ。

まっすぐに、イルカは微笑んだ。

「俺は充分、実力に見合った任務をしていますよ」

カカシが追えないほど清廉な笑みを残して、イルカは歩き去った。

後姿が見えなくなった頃、カカシはようやく壁から身を離して、ふさふさした頭髪をかき乱す。

「ちきしょ――やっぱり、はぐらかしてんじゃないか」

結局。イルカが火影の仕事のどこまでを請け負っているのか、確信できる言葉は引き出せなかった。
一般論と微笑みで、カカシの追求をやんわり拒んだ。
やはりどうしても、ごまかされたとしか思えない。

嘘と真実をいり混ぜて話すのは、隠したい事があるときの常套手段。

単なるアカデミーの教師で、普通の中忍で、変わったところなどなにもないと思っていたのに。
くつくつとカカシは笑む。

里中の忍たちを欺き続ける強かさがあるなんて。

「あーもう。騙された、騙された。あのクソ中忍」

声が、弾んでしまう。
わくわくした気分を隠しもせず、カカシは上機嫌でベッドに倒れこんだ。

あんな人だとは思わなかった。
あんなふうに、さりげなく、裏を読ませない人だとは思わなかった。気付けなかった。―――いい性格してるよ、ほんと!

「…あのぶんだと、警護変わったって言ってたのも、どこまでほんとだかわかんないねえ」

川辺で出会ったときの驚きは、演技だったのだろうか。それともほんとにびっくりしてた?
どうなのかな、イルカ先生――。

アンタの顔をぜんぶ暴いてみたいな。

イルカはまだカカシに言っていないことがある。それは確信だった。

どうしてだか、それをすべて知りたい。すべて知って――自分だけに見せて欲しい。

そこまで強い感情を覚えることは珍しくて、カカシはごろごろベッドで丸まる。その感情がどういう種類のものなのか、面倒くさいことは考えない。
あの男のことをもっと知りたい。その恍惚にも似た感情だけが、いまカカシを支配するすべて。

窓の外では、今夜の一部始終を見ていたひとりだけの観客が、やわらかい光を撒き散らしている。
包まれて、カカシは何年かぶりに目覚めることを心待ちにしながら眠りに落ちた。































灯りもない夜道を、危うげなく歩みながら、イルカは空を見上げた。
猫の爪跡のような月がずいぶんと傾いて、眠そうに天上の端に引っかかっている。

ちょっと面倒なことになったな――と、思う。

中忍うみのイルカは、あくまで普通の忍でいなければならない。疑いを持たせてはならない。
だから、はじめはカカシの言葉を否定した。だが、あの上忍はあっさりとそれを見破った。

追求はかわせたけれど、信じてはもらえなかった。せめて「上忍になれる実力を持っていながら、野心はなく中忍でいる」と思われたかったのだが、昇進せずにいるのは火影の意図が あるのではないかと、カカシは考えているだろう。

おまけに、帰り際の楽しそうな顔を見ていて、無用な関心を引いてしまったことに気がついた。

詰問から逃げていたら、諦めるのではなく、かえって興味を煽ってしまったようだった。
あんなふうに、物事にこだわる人じゃないと思っていたのに。読みが外れた。

……失敗だ。

「あーどうしよう。失敗したなあ」

近年にない大失態をしたにも関わらず、イルカの心はさほど重くなかった。

むしろ、なにやらすっきりしたぐらいだ。

誰かを欺いて生きていくのは忍の常とはいえ、仲間であるはずの同僚たちにも隠し続けての日々に、ほんの少し疲れ始めていた。
もともと、何も言わないとか感じないふりをするとか、そういうことは得意で、慣れてもいたのだけれど。

自分の性格の根本が、そういう淡白な性質を持っていることには、だいぶ前から 気がついていた。だから火影も自分にこの仕事をさせているのだろう。

「でも、もう一つの仕事まではバレなかったから、まあいっか」

里の些末事を片付ける便利屋。そのほかに――――――もうひとつ。

そちらの方は、好奇心だけで付きまとってきた輩などに、洩らせるものではない。
冷ややかに里を見下ろす月を愛でながら、イルカはのほほんと笑った。














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2003.12.03.