□ 月のきれいな夜だった 3 □ 真夜中の火影屋敷。 灯りなど、鍛えた忍の目には必要ないが、イルカは目を瞑っても邸内を散策できるほど 屋敷を熟知している。 当然だ。十二年前の事件があってしばらく、ここに住んだ時期もあったのだから。 待っていた老人は、茄子紺の浴衣を羽織って濡れ晒しの髪を下ろしたイルカに、軽く目を剥いた。 「どうした。珍しい格好をしておるな」 「ええ。実は、カカシ先生に見つかってしまいまして…」 「なんじゃと?」 驚愕に思わず声を荒げた三代目火影である。 カカシの読みどおり、友人の警護を代わったというのは方便だったのだ。イルカが闘ったのは、里内部に潜伏していた他里の忍で、自分たちが怪しまれていることに気付いて 逃げ出そうとしたところを、追い詰めて抹殺したのである。 とはいえ、本当に、たまたま散歩にきていた忍に見つかるなどという、万に一つの偶然があるものだろうか。 「間違いなく、偶然か?」 「ヤですね、忍って。なんでもかんでも偶然か故意か疑わなきゃならないんですから…」 「アホか。そんな愚痴は聞いとらん。で、どうなんじゃ」 「間違いないと思われます。カカシ上忍は、完全に丸腰でしたから。薄い着物一枚で、ふらふら歩き回ってたんですよ。いくら里内でも警戒心薄すぎですね、あの方は」 そんなカカシにしばらく見惚れてしまったことは報告から省く。 知れば、好奇心旺盛なこの老人に根掘り葉掘りからかわれることは眼に見えていた。 薄暗い室内でも、お互いの表情を見誤ることはない。言い方は素っ気ないが、イルカの勘はよく当たる。 火影はううむと唸った。 「どこまで知られた?」 「火影の私兵じみた任務を請け負っていることは、確実に。内容までは深く探らせませんでした。ですが…うすうす感づいているかと思われます」 死線をくぐりぬけてきた忍ほど鼻が利くようになる。 カカシ相手にはぐらかすのは、なかなか骨の折れる作業だった。 「それと、一つ困ったことがありまして…」 顔をしかめている火影に、言いにくそうにイルカは目を逸らしながら呟いた。 「なんじゃ。あやつに見つかっては仕方がない。話術も相当できるからの。なにを知られた?」 「いえ、知られたのではなく…。関心をひいたようです」 ずばり言うのはなんとなく躊躇われて、遠まわしに伝えたのだが、火影は察せなかった。傘の下からうろんげにイルカを見遣る。 「当然じゃろう。アカデミー勤務の中忍が、上忍並みの身ごなしでひそかに暗躍していたのでは、の」 「………そうじゃないんです。勿論それも含まれているのでしょうが、どうも……俺自体に興味があるらしいんです」 火影は目を丸くした。 「な、なんじゃとっ?」 「なんででしょう? 当たり障りのない対応をしていたんですけど。どうしてあれで興味を煽られちゃうのか、俺にはよくわかりません」 溜息交じりに首を傾げるしかない。 「あやつは、そうそう他人に執着することなどないはずだが…」 信じられん、と言いたげに頭を振る火影だ。 幼い頃から目を引く存在だったカカシの行動を、よかれ悪しかれ火影は知り尽くしている。 心を打ち解けた友人と師が次々に死んだあと、カカシは忌避するように「大切なひと」を作らずにきた。 頑ななまでに馴れ合いを避けて、女といえば身体だけの関係、上忍仲間とも、里に帰ってまで共に飲み交わすような仲はひとりふたり。 むしろ、好意を持った相手を遠ざけるような真似を繰り返してきたカカシなのに。 それがこのイルカに―――興味を持ち、自ら近付いているだと? 「火影さま?」 「うむ……まあ、相手はあのカカシじゃからの。どんな気まぐれを起したとしても不思議はないわい」 固まっていた火影は、驚きがじょじょに引くにつれ―――イルカのまだ濡れた黒髪が肌に張り付いているようす、ほんのり紅く染まった 頬やすらりとした立ち姿をじっとり眺め―――額を押さえた。 「なんですか。変な目で見ないでください」 「な、なにをいうかッ、違うわ!……しかし、のう…カカシのせいとばかりも言えんか…」 後半はイルカにも聞こえない溜息交じりの声。 銀髪の上忍の奇行はいつものことだが、火影は妙に胸騒ぎがした。 秘書としても忍としても優秀なイルカには、ひとつだけ欠点がある。 忍にはあるまじき欠点だが―――自分の魅力に無自覚すぎるのだ。 教師が天職です、といった笑顔でアカデミー教師をやっているイルカには、昔から、「こうあるべき自分」を意識せず演じているようなふしが ある。 ほとんど無意識に理想の自分を演じている。そのぶん、ほんとうの「イルカ」とのギャップが激しい。 その落差に何人も魅惑されてきたのを火影は知っている。 イルカは本当は、それほど熱血でもないし頑なでもない。 黙り込む火影の前で、イルカも不審そうに首をかしげていた。 訝しげに首をひねるのも、イルカがやると妙に無邪気であどけない仕草となる。 ふりまく愛想に、ふらふら寄って来る女も男も後を絶たないが、何故だかそういった秋波や色めいた雰囲気にイルカは鈍い。 結果、深い関係とはならずに別れるわけだが。 カカシの「関心」がどんな種類のものであるにしろ、イルカに理解される日は遠いだろうな、と老人は遠い目でぷかりと煙草の煙を眺めた。 「まあ、それもそのうち知れるじゃろうて」 「は?」 「こっちの話じゃ。―――――ところでイルカ。カカシに遭遇する前の任務は無事完了したのだな?」 す、と居住まいを正したふうに空気が変わる。 イルカもゆっくり目を細めた。 「はい。つつがなく」 「やはり滝隠れの忍か」 「間違いありません。が、抜け忍と思われます」 「死体処理班からの報告書には、そんな記載はなかったが?」 「おそらくごく最近抜けた忍です。一、二ヶ月じゃ抜け忍独特のにおいもつきませんから、気付かなかったのでしょう」 コン、と煙管の灰を落とす音が高く響いた。 眉を上げた火影に、素知らぬ顔でイルカは続ける。 「兵糧丸など、丸薬が手製の拙いものだったんです。支給された滝隠れのものよりずいぶん質が落ちてましたから、 調べていただければすぐにわかるはずです」 本来ならそれを真っ先に悟るべき処理班の失態に、老人は低く唸って傘を深くかぶった。 「……処理班の監督官もせぬか、イルカ」 「ご冗談を。これ以上仕事が増えたら過労死します」 「嘘をまじめな顔で言うでないわ。……イルカ」 いっそう低く、鼻にかかって小さくなった声。 火影がこんな声を出すときは、大抵よくない知らせがもたらされる。 急に戦場の只中へ放り出されたように、イルカは背筋が強張るのを感じた。 ろくに武器も身につけていない今の装束が心もとなく、身体を震わせる。 大なり小なり、さまざまな雑用を火影から言いつかるイルカではあるが、その中に命を賭すような危険なものは、実際のところ ほとんどない。カカシに説明したことは嘘ではなく―――――クナイを持って立ち回った今夜こそ、珍しい部類に入る。 現実、斬った張ったよりも、複雑に入り組んだ事情とか人の感情を慮らねばならない事態ほど、解決がむずかしいものだ。 クナイを振り回して片付くなら、それに越したことはない。 そう言いきれるほどに、悲喜こもごもの愛憎に携わってきた。 ――――けれど。どうやら今回はそれじゃ済まないらしい。 離れて久しい血と硝煙の臭いが漂ってくるようで、思わずイルカは顔をしかめた。 煙に乗せて、老人は吐き出す。 「その抜け忍が狙っていたのは、白眼だ」 きた。 比喩ではなく眩暈を感じた。 よりにもよって、血継限界が獲物だったとは―――最近の抜け忍は恐れ知らずなことをやってのける。 無意識に声が荒立った。 「無謀です。たったふたりでは…」 「そうじゃな。しかも、抜け忍ということは、だ」 「誰かに雇われている可能性が高いんですね…。だとすると、二番手三番手が潜入してくるかも―――いや、もう潜入している かもしれません」 火影は無言で肯定した。 めまぐるしく情報が頭の中を飛び交う。白眼を狙う抜け忍。 ―――――白眼を狙う、依頼人のだれか。 少なくとも、一介の中忍の手にはあまる事態だ。事が大きすぎる。 イルカは首の後ろをさすった。ちりちりと、産毛が逆立つような感覚がする。 「暗部に日向家の護衛を命じた方がよろしいでしょう。依頼人はわからないんですか?」 「まだ判明しとらん。暗部に探らせておる」 もはやイルカの手を離れた事件を、火影があえて話すときは、意見を求めているからに他ならない。 火影の命で、幼い頃からさまざまな問題事に関わってきたイルカは、解決の糸口を見つけるのがひどくうまくなった。 忍の勘とは別に、物事の本質を嗅ぎ分ける能力が磨かれたのだ。 そのおかげで何度も命拾いしているイルカだが、全然ありがたいとは思えない。 鼻が効くようになったのをいいことに、ますます火影にこき使われるようになった気がしてならないからだ。 こういった深刻な場合だけ、ほんの少し良かったとも思うけれど。 「―――妙ですね。その依頼人」 「ほう? どこが妙だ」 案の定、しぶしぶイルカが呟くと、火影はぎらっと目を光らせた。 「木の葉の忍の優秀さは、隠れ里に知れ渡っています。たかが忍者ふたりだけで、木の葉が秘匿している血継限界 を探ろうとする忍なんて、いやしないでしょう。 何年もかけてなら別ですが、今回侵入していた忍はそんな様子はありませんでした。 明らかに短期で決着をつけようとしている装備でしたから。 ですが、そもそも……少しでも木の葉の里を知っている者なら、 こんな馬鹿げた、成功する見込みの低い仕事を頼むわけがありません」 淡々と事実だけを述べていく黒髪の中忍を、火影は黙って見つめている。 ふたりにとっては慣れた図だが、第三者がいたら目をむいて絶句するに違いなかった。 火影は悠然と座り、中忍は直立の姿勢から微動だにしていないが、その場を支配しているのは明らかに中忍のよく通る声だったから。 「依頼人はおそらく、忍のことなどろくに知らない素人です。大名だとしたら、よっぽどボンクラですね。なぜ白眼を欲しがって いるのかはわかりませんが、短期間で奪ってこいなんて無茶なこと言うくらいですから、すぐに次の忍を送ってくると思います。 それも馬鹿正直に倍の数……四人以上は確実でしょう。 たぶん、依頼をためらった抜け忍ふたりに、報酬ははずむとかなんとか言ったんだと思います。だから、無茶だと思いつつも 引き受けざるを得なかったんじゃないでしょうか」 聞くうちに、火影の顔がおかしくてたまらないと言いたげに歪んでいく。 しまいには堪えきれず、老人はくっくっと笑い出していた。 何の害にもならないような清潔な顔をして、時に切れそうなまでの鋭い読みをしてのけるこの忍を、火影は心底好きだった。 孫のように―――それこそ、際立った才能を見せるまでは本当の孫のように、純粋に慈しんでいた。 憮然として控えるイルカに、満足げな笑みを向ける。 「イルカは、器用貧乏というやつかもしれんな」 原因をつくった火影に言われると、いっそう脱力感を覚えて肩が落ちるイルカだった。 |