□ 月のきれいな夜だった □














月のきれいな夜だった。

なんとなく寝付けず、月に誘われるままにふらりと散歩に出たカカシは、 木の葉の里のはずれを流れる、川辺までぶらぶらと歩いた。
いまの季節ならば、遅れてきた蛍が一、二匹、まだ見ることができるかもしれないと思ったのだ。

だれとも出会わない夜の道行きは、任務という神経の張り詰めも、緊迫感もない。
里の中という安心もあってか、歩きながら思わず目を瞑ってしまいたくなるほど穏やかで、心地よい。

白い寝巻きをゆったりと羽織って、音も立てずに小道をゆく男の姿を見る者はなく、 ゆいいつ中天の月だけが、その優美な光景を堪能していた。
魅入ってしまいそうな、冴え冴えとした月光に照らされたカカシの髪は、 光を吸いとったかのように冷たい銀に輝いている。

どこも隠されることなく、白い面をさらけだした顔はさらに青白く照り映えて、作りものめいていた。


鉱物でできた、銀色の人間のように。


月の思惑を裏切って、浴衣の寝巻きのすそがふわりとときおり舞い上がる。
カカシはふと顔を上げて、空気をかいで、目を細めた。

ゆるゆると頬をなぶった風が、わずかに水のにおいを宿してきた。
やわらかく生い茂った草をそっとよけるように、下りの坂道を降りてゆくと、 しだいに土の感触がやわらかく、水のにおいが強くなってくる。同時に、風までもがするっと冷えていく。

(──ああ…)

カカシは声もなく立ち尽くした。

水辺にせり出した草木の上を、ゆら、とひとつの光点が横切ったかと思えば。
いくつもいくつも、数え切れないほどの光の群れが、漂うようにあたりに舞い始めたのだ。
それは密やかに、呆然と目を見開くカカシの髪や腕にもふらふら触れて、そうっと離れて、また寄って。
樹の精霊が迷いだしたかのように。どこまでも美しく。

甘美で静かな、それは生の戯れだった。

蛍を驚かさないよう、そうっと腕を持ち上げて、淡い燐光を楽しんでいたカカシは、 一匹の蛍がゆっくりと手のひらにおさまったとき、かすかに眉をひそめた。

───血臭。

川の対岸から、月夜には不釣合いな、血なまぐさい香りが流れてくる。 それと同時に、チャクラの乱れ。ほんのわずかなものではあるのだが、見逃せるようなものではなかった。
  ここは木の葉の里なのだ。里内で刃傷沙汰は御法度である。 それにも関わらず誰かが血を流しているとすれば、可能性は限られてくる。
真夜中の私闘か、───侵入者。
どちらにしても見過ごすわけにはいかなかった。
後者はもちろんだが、前者ならば、里の禁を犯していることになる。 大事にはしないまでも、火影に伝えておくべきだろう。

そんなことをざっと思い浮かべ、感情を消した顔を上げると、蛍はあたりに一匹もいなくなっていた。

小さな生き物ほど、気に聡い。
カカシの変化を敏感に感じ取って、身の危険を避けたのだろう。
穏やかな夏の夜を台無しにされた苛立ちに、カカシは見知らぬ血臭の主を呪った。


















ざん、と水柱が立った。

続いて、ぎん、という刃物がぶつかり合う音。刀の残光。

罪を暴くような月光をさえぎるものもなく、水面がさらに光を反射するため、 忍のカカシの目にはまるで昼日中の出来事のように、激しい戦闘をつぶさに見ることができた。
二対一の戦いのようだった。
三人とも手練である。おそろしく腕が立つ、といっていい。
上忍であるカカシだが、三名が押し殺しつつ、隠し切れずにあたりに漏らす殺気に、 産毛が逆立つような感覚を覚えるほどだ。

(これは……)
どちらが、木の葉の里の忍なのか。

いくらよく見えるとはいっても、顔をすっぽり覆った覆面からわずかに見える目元だけで判別できるわけもない。
気配を探ってみても、三名とも、あまりなじみがないのだ。
闘い方も見知ったものではない。術でも使えば、そのクセから誰かわかるかもしれないが、 激しい火花を散らした接近戦では、術の出る幕などない。

二人の攻撃を防ぎきっている忍が、技量で勝っている、とカカシは判断した。
おそらく、術の練熟度も。だからこそ、術の応酬では不利とみた二人組みが、 数で勝ることの利点を生かして体術で挑んでいるのだ。

(だがそれも───終わる。体術でも負けている)

クナイひとつで鮮やかに二人を捌ききる忍の動きは見事なものだった。
正確で、無駄がなく、そして速い。かと思えば予想もつかないフェイントをかけて、 二人を翻弄し、隙につけいらせない。

男が投げたクナイに、無理やり身をかわした一人が、空中で半回転し、川の中に降り立った。
いまだ。カカシが思ったとき、男の姿が一瞬消えたようにかすれ、 突進してきたもう一人の喉元を斯き切っていた。 すばやく反転し、川の中に立ちすくむ男の懐へ再び一瞬で接近し、同じく息を絶つ。

人の命を奪ったとも思えない、舞いにも似た、惚れ惚れするほどの手際だった。

ばしゃん、と音を立てて、崩れ落ちる体からぱっと飛びのき、男はふいに顔をあげ、月を見たようだった。 その一瞬で、額宛が木の葉のものだとわかり、カカシはほうっと息をつく。
感じたのは、まぎれもない安堵だった。
たいした装備も持っていない、こんな寝巻きの格好で、 万全の準備を整えても勝てるかどうかわからない相手と一戦交えるなどというのはありがたくない。

それに、と思う。

蛍のような、見惚れるような闘い方をする男を見て、殺したくないな、とカカシは思ってしまったのだ。
だが、まさか。完璧に気配を消した上での、小さなため息ひとつで、 カカシの存在がばれてしまうとは思わなかった。
茂みに潜んだカカシの近くの木の幹に、乾いた音を立ててクナイが突き刺さるまで、 カカシはクナイが投げられたことにきづかなった。

瞬間、思わずぞっとした。

正確な場所はわからなかったものの、誰かがいることには気づいたのだろう、 男はじっとカカシのほうを見据えたまま、ぴくりとも動かない。

これは出て行かなければどうしようもないな、と、カカシは仕方なくふらりと立ち上がった。




















白い麗人が、月光の中に進み出た。

今度は、男のほうがかすかに息を呑む気配が伝わってきて、カカシはなにやら愉快な気持ちになる。 口の端だけを上げて、うっそりと笑った。
──それがどれほど艶美に見えるかも知らず。

男がぎょっと体を揺らし、見るからに動揺する。そして、小さく声が漏れた。唖然と。

「か、カカシさん…? な、なんで」
その声音で、カカシも驚愕に目を見開く。赤い目がぎらりと光った。
「イルカ先生…?」
どうして。同時に呆然とつぶやいて、その後でまた同時に、なんでこんなとこに、と言葉が重なった。

血に濡れた猛々しい姿で、クナイを片手に、水の中に立っているのは、間違いなくアカデミーの教師で、 現在カカシの部下になっている三名の下忍たちの元教師、うみのイルカだった。

一瞬の驚愕が去ると、カカシの視線は自然と険しくなった。
「どういうことです?」

里の警備にあたる忍でもないくせに、なぜこんな夜中に、こんな場所で、 上忍もかくやという技を露にして戦闘しているのか。

「もしや、俺は見てはいけないものを見たんですか?」
イルカが、上忍としての十分な腕前を持っているのに、アカデミーの教師などにおさまっている事情。 それはたやすく、火影のお気に入りであるという情報に結びつく。
すなわち、火影から特殊に、内々の任務を仰せつかったりすることもある、存在なのかと。

イルカは呆けたようにカカシを眺めていたが、詰問口調に我に返って、慌てて首を振った。

「ち、違います。今夜はたまたま、友人から頼まれて、里の警護の代行を…。 木の国の忍が里に侵入を狙っているという情報があって…警備の数が増えているんです」
「里境でもないのに、こんなところを見廻っていたんですか」
「い、いえ、警備の交代の時間で、家に戻る途中に、たまたま侵入者と出くわして…」
二人を追っているうちに、ここまできてしまったのだと、イルカは途切れがちに説明した。
木の国の忍の話はカカシの耳にも入っていた。 どこか紅潮したように見える顔を観察しながら、そうですか、と幾分やわらかく言うと、 イルカは目に見えてほっとする。だが、まだ不審なことはあった。
色違いの瞳を細めて、カカシは低く問う。

「アナタ、なんで上忍じゃないんです?」

「なんでといわれましても…」
「さっきの闘い、術こそ見なかったものの、立派なもんでしたよ。一度手合わせ願いたいモンですね」
「ご謙遜を…。おれはそんなに優秀じゃありませんよ」
「それこそ嫌味です。まるで実力を隠しているみたいじゃないですか」

カカシの追求に、イルカはため息をつくと、じゃぶじゃぶ水を掻き分けて岸辺へあがる。

「そんなんじゃありません」
「じゃあ、なんでですか」

ほんの数歩のところまで近づいて、イルカは口宛を下げた。 いつもどおりの、「イルカ先生」の顔になっている。困ったようにちょっと眉を寄せて。

「何度か、火影様にも薦められたんですけど。おれは、教師のままでいたかったんです」
目を見開いたカカシに、慌てたように言い添える。

「上忍になると管理職につかなくちゃいけないんですよ。おれはクラスを担当していたかったんです。 ナルトのこともありますし。アイツ、危なっかしくて目が離せないでしょう? だから」
「………何年も実戦を離れている忍の動きじゃありませんでしたけどね?」
「それは、たまに……火影さまから、伝令のような任務を使わされることもあって。 忍の数が足りない時とか、緊急の場合とかなんですけど。 体がなまるほど、火影さまは楽させてくれませんでした」

それは、火影の内密の「手」でもあるということではないか。
あきれて、カカシは天を仰ぐ。

「私兵じゃないですか、それじゃ」
「はあ、まあ。…たまにそんなバイトもしてます」

笑えてきた。イルカにとっては、命のやり取りをする危険な任務こそが、副業に他ならないのだ。
イルカの信条をあえて口にするならば、「生涯、一教師」だろうか。

カカシは改めて、朴訥な印象を与える男の顔を見下ろした。
それほど親しいわけでもない。顔をあわせたことは何度かあるが、話したことはほとんどない。 この会話が、いままでで一番長いくらいだ。

戦闘のためだろう、わずかに乱れた黒髪が幾筋か顔にかかっている。 荒削りな顔立ちだが、存外に整っていることにカカシは気づいた。 なにより、黒目がちな大きな瞳が、あやまたずまっすぐ人を見詰めるのに、はっとする。

カカシの反応にいささか緊張しているのか、犬のように言葉を待たれていると、なにやらおかしくなってきた。

「イルカ先生」
「は、はい」
「俺の家、来ませんか?」
「はっ?」
大きな目がますます丸くなるのを見て、カカシは今度こそにっこり笑った。

「近いですから、行きましょう。血、流してから帰ったほうがいいですよ」