■ 月の魔法 3■














カカシとの生活は、イルカが最初に考えていたよりも順調に続いていた。

何より記憶を無くしたカカシが、イルカの知っていたカカシとはあまりにも違っていたのが良かったのだろう。

変に意識する事も無く、それどころか何だか手の掛かる子供を持ってしまったような感覚で、イルカはアカデミー教師、受付、カカシの世話……と、忙しく充実した日々を過ごしていた。









「イルカ」

台所で夕食を作っていると突然背後から声を掛けられ、イルカは包丁を持ったまま飛び上がりそうになってしまった。

「びっくりした……! カカシ先生、気配を消して背後に立つのは止めてくださいと言って――」

「出来た……」

イルカの言葉をさえぎってカカシが差し出したのは、スジを取ったさやえんどうの小山である。

「ああ……うまく取れましたね。やっぱりカカシ先生は器用だな〜〜、助かりましたよ」

ありがとうございますと言うと、ムッツリとしたカカシの、綺麗に通った鼻筋――その形の良い鼻がよく見ないとわからないくらい、ほんの微かにだがふくらむのがわかった。

(喜んでる喜んでる……)

心の中でクスリと笑う。

一緒に暮らし始めてわかったのだが、カカシは自分では濡れた髪すら拭こうとしない、かなり徹底した怠け者だった。
勿論料理はしないし洗濯だって、何それ?――という感じだ。これまでは一体どうしていたのか、それともこうなったのは記憶を失ってからの事なのか。全くその辺は謎だったが……。
けれど出来ないのではなくただしないだけなので、気が向くと何でも器用にこなしてみせる。
写輪眼など使わなくとも物覚えは速かったし、褒めると満更でも無い様子なのがまた面白かった。

「次は……?」

「そうですね、焼いた鮭をほぐしながら骨を取ってくれますか?」

今日は里芋の煮物に鮭御飯。カカシの好きなナスの味噌汁もある。
多分それでいつになく手伝う気になっているのだと思うが、そんな現金なカカシもまたイルカは嫌いではなかった。

(素直じゃないところが、また可愛いよな……)

記憶を失ったカカシは以前のカカシと違ってあまり愛想は良くない。
いつもムッツリとして不機嫌そうだし、時々辛辣な事を言ったりもする。けれど何だか人馴れしていない猫の仔を見ている様で、何だかその素っ気無ささえもイルカには微笑ましかった。

でも踏み込み過ぎると逃げてしまうから要注意である。

警戒してフー―ッッと毛を逆立てる猫に対し、「敵じゃないよ大丈夫……」「ほら恐くない……」と低く片手を差出してそっと近づいていくのと同じ要領。

こちらからは敢えて近づき過ぎず、それでいて向こうから近づいてきたら飽きるまでかまってやる。
そして言う事を聞いてくれたらちゃんと褒めやる事――それが大事だった。

手は掛かるけれど、少しずつ馴れて向こうから歩み寄ってきた時の可愛さといったら無い。

そんなイルカの気持がカカシにもわかってしまうのか、どうも最近は我侭になったような気がするのが少しひっかかりもするが、ナルト達ともばれずに上手くやっている様子だし、とにかく今、イルカは本当に幸せだった。

これが任務だと云う事を忘れた訳ではない。けれどこんな日々がいつまでも続けばいいとそう思ってしまう程に、イルカにとって記憶を失った子供のようなカカシの存在は、無くてはならないものになりつつあった。










     **********









「カカシ、あんたったら最近まったく遅刻しなくなったんですって?」

どういう心境の変化よ……と、いきなり話を振ってきた紅にギクリとしたのは、言われたカカシではなく、何故か少し離れた所で煙草を吸っていたアスマだった。
場所は上忍控え室。
陽当たりが良く、座り心地のいいソファーと更には飲み物までが常備されているので、時間があると里に居る上忍はついここに溜まりがちとなる。

「ん〜〜? 別に心境の変化ってよりもー、何か毎朝同じ時間に叩き起こされるんだよねー眠いのに〜」

当の本人は何も気にした様子も無く、眠そうな顔で普通に応えを返している。

(こうしてると、記憶が無い何て信じられねぇな……)

しかしカカシは確かに記憶を失っているのだった。子供達の事も、紅やアスマの事だってその記憶の中には存在しない。
ただ必要な情報として、表面的な事はその優秀な脳みそに詰め込まれはしたようだが……。

(……まあてめぇがイルカにした事を覚えていれば、流石に同居なんて出来るわけがねぇしな)

手の平を返したようなカカシの突然の変化に、イルカがどんなに傷ついていたのかをアスマは知っている。

――利用するだけして、必要無くなったらポイ捨て。

そうとしか思えないカカシの態度に、眉をひそめたのはついこの間の事だ。アスマもまたイルカの笑顔に癒されていたクチなので、受付で無理に笑顔を作っているイルカを見るたびに、何とかならないものかと苦い思いを抱いていた。

(何とかなったといえば何とかなったんだろうが、しかし、どうも納得いかねぇ……)

そんなコトを思うアスマを他所に、紅とカカシの会話は続く。

「何よ起こされるって――あんた何時の間にそんな相手が出来たわけ……!」

「そんな相手がどんな相手かは知らないけどね。子供達を待たせる気ですかっ! とかもーウルサイウルサイ。あと五分だけって言っても許してくれなくて、今日なんか服の中に何と氷を入れてきたんだから……それにこの間だって――」

カカシがこんなに饒舌になるのは珍しい。紅も少し驚きながら、感心した様に呟いた。

「――良くわかんない状況だけど、アンタを起こすのってかなり大変そうね……ちょっと感心しちゃうわ」

アスマも同感だ。イルカの毎朝の苦労が偲ばれる。

「まあでも、良い傾向よね。アンタにもそういう相手が出来たってのは」

「だからどんな相手だっての……」

紅はすっかりカカシと同居しているのは女だと勘違いしているようだ。
まあ確かになんだかんだ言ってうまくやっている様子だし、カカシの話ぶりを聞いていると惚気の様にすら思えてくるのだから無理も無い。

カカシがボロを出さない様にとさり気なく近くにいたアスマだったが、何だか馬鹿らしくなって立ち上がった。

「あら、アスマ何処行くの?」

紅の言葉に、アスマはひらりと報告書を見せる事で答え、のんびりとその場を後にするのだった。








最近の受付に活気があるのには、勿論理由がある。

「お疲れ様です、アスマ先生」

にこっと向けられた柔らかな陽の光のような微笑に、これが自分だけに向けられたものでは無いと知りながらも、アスマもまた思わずほんわかと癒されていくのを感じていた。

「どうやらうまくいってるようだな」

「はい。おかげさまで」

カカシの名は出さなくとも、それだけで通じ合う。

「それにしてもいいもん食わせてるみたいじゃないか……最近随分と血色が良くなって来たぞ」

アスマのその言葉に、まさに得たりとイルカは顔を輝かせた。

「わかりますか! どうも今までろくな物食べてなかったみたいで嫌な痩せ方してましたけれど、すっかり健康的な肌色になってきたと思うんです。毛並だって違うでしょう? 毎日ちゃんとブラッシングしてますからね」

(毛並……って、単なる例えだよな。まさか本気で言ってはねぇと思うが……)

まるで自慢のペットの事を話すように何だか得意げなイルカに、アスマはちょっと心配になる。

「何だ、最近いそいそと早く帰ると思ってたら、ペット飼い始めたのかイルカ」

横から納得したように口をはさんできた同僚に、イルカは嬉しそうに頷いた。

「滅茶苦茶可愛いぞウチのは。銀色のそりゃあ綺麗な毛並だし、気紛れな仔だけどすごく賢いんだ」

「うわ〜〜親ばかがいるよ」

和やか極まりない空気に、アスマは一人で冷や汗を流す。

(例えだよな……あくまで例えの筈だ……)

「今度見に行ってもいいか?」

「う〜〜ん。ちょっとそれは……ようやく馴れ始めてきた所だし、かなり人見知り激しいから」

「そうか、――残念」

「あ、すいませんアスマ先生お待たせして。はい結構です、お疲れ様でした」

「……おう」

何だか本当に疲れたような気分でアスマは列を抜けた。
後ろの方では元気なイルカの声と、何も知らずにそんなイルカに癒されている奴等のほんわかオーラが展開している。

(今日はもう帰って寝るか……)

大きな体を木枯らしに丸めて、寂しく一人帰路につくアスマ。

そんな彼を憧れの瞳で見送る女達も決して少なくは無いのだが、如何せん本人がそういった視線にどうしょうもなく鈍い為、この先もしばらくは寂しい独り身が続きそうな気配だった。









     **********








カカシが家に着いた時、イルカはまだ帰っておらず家の中はひっそりと静まり返っていた。

真っ暗な部屋の中でぼんやりとしながら、カカシは何だか嫌な思いを噛み締める。

明かりのつけ方も、暖房のつけ方も知ってはいたが、風邪を引いたらイルカの所為だ、早く帰ってこないのが悪いんだと、カカシは部屋の片隅にうずくまってただひたすらイルカの帰りを待った。

少し眠っていたのだろうか。慌しい気配に目を開いたカカシは、眩しい明かりの中で驚いた様に目を見開いているイルカに、遅い――と心の中で呟いた。


「こんな寒い中で何やってんですかカカシ先生! 暖房の付け方教えたでしょう!?」

「……知らない」

「ああもうっ! こんなに冷えて。すぐにお風呂沸かしますから入って温まってくださいっ。取り敢えず何か温かい飲み物を――」

ふわりと頬を包む暖かい手に目を細める。
暫らくこうしていたかったが、イルカはすぐに風呂を沸かしに行ってしまった。
イルカが居る家は暖かい。それは単に暖房器具の所為なのかもしれなかったが、カカシにとってはイルカこそが、暖かいもの全ての象徴のようにすら感じられた。









温めの風呂に浸かりながら、イルカに髪を洗われている時が、カカシの至福の時間である。
腕まくりをしてカカシの髪を泡立てている時のイルカはとても楽しそうで、そんなイルカを感じていると益々幸せな気分になるカカシだ。

「一緒に入ればいい」

カカシはイルカに何度かそう言った事がある。

しかしイルカは何故かそれだけは頑なに拒んだ。
なんでも「男二人で入るには狭いですよ」だそうだが、ならもっと風呂を広くしようと言っても勿体無いからと首を振る。

でもカカシは諦めた訳では無かった。イルカは何故かカカシのお願いに弱い。
首を軽く傾げてじっと目を見ると、困ったような顔をふにゃっと崩して、大抵の事は聞いてくれるのだ。

それにどうもイルカはカカシの事を、幼い子供か何かのように思っている節がある。

オムライスには旗が立つし、スープはこぼさない様にとマグカップで出てくる。膝枕で耳掻きはもう当たり前、夜寒いからと布団に潜り込んでも怒らない。

自分に対して無防備なイルカは嫌いじゃなかった。だが他所でも同じ事をしているのかもしれないと思うと途端に気分が悪くなる。

イルカの匂いも温かさも、知っているのは自分だけでいいのだとカカシは思っていた。

「カカシ先生と俺は、あまり親しくは無かったんですよ」

だから外ではあまり話しかけてはいけないのだとイルカは言うが、それなら代わりにもっと家では自分を大切にするべきだと、常日頃からカカシは主張している。

言葉ではなく、態度でだが……。
でもちゃんとイルカには通じているので問題は無い。

そして今日もカカシはイルカの膝の上で寛ぎながら、ウトウトとまどろむのだ。


上忍の権限をフルに使って一日で風呂の改装をさせ、明日の夜こそはイルカと一緒に風呂に入ろうとたくらみながら、カカシは大きなあくびをした。








     **********








朝っぱらから見たくないもの。

今アスマがそれを一つ上げるとしたら、今目の前にある「カカシの拗ねた顔」がまさにそれだった。

何故よりによって今日、自分の担当する班とカカシの班が合同訓練をすることになっているのか……。

「何があったってんだ」

聞かなきゃ良いのにやはり聞いてしまうアスマ。それに対するカカシの答えは――。


「――イルカが怒った……」


……ああそうかよ。
そんな心の声とは裏腹に、律儀に言葉を返すアスマである。

「オマエな、……外ではイルカ先生だろうが」

「そんな事どうでもいい、 それよりイルカが――」

「わかったわかった、で、何があったんだ……?」

イルカを連発するカカシを慌てて止めて、アスマはしぶしぶとカカシの言葉を促した。

「昨日風呂を改装したのに、イルカが怒って一緒に入ってくれなかった」

咥えていた煙草がアスマの口からポロリと地に落ちる。

「お、お前等まさか一緒に……?」

いい図体の男同士で一緒に風呂に入ってるのかと呆然とするアスマに、カカシは首を振った。

「だから入ってくれないんだってイルカが……。狭いから駄目って言うから、ちゃんと二倍の広さに改装したのに……」

ようやく事情が分かったアスマだったが、それで一体何と答えれば良いというのか……。

実の所かなり動揺していたらしく、無意識に新しい煙草を手に取り口に咥えるアスマ。
しかしまさに火をつけようとした瞬間背後で歓声が上がり、再び煙草は地に落ちる。







「イルカ先生だってばよ!」

「先生ーっ子供達連れて何処行くんですが〜〜!?」

振り返ったアスマの目に写ったのは、体術の訓練を中断して、遠くに見えるイルカとその後に続くアカデミーの生徒達に手を振っている、無邪気な部下達の姿だった。

どうやらイルカは子供達の演習訓練らしい。ぞろぞろと小さいのを引き連れる様は、何だか親鴨か何かのようで微笑ましい。

しかしそれが気に入らないらしい奴が一人、不機嫌なオーラを溢れるほどに吐き出していた。

「俺の事は怒った癖に……」

どうやら子供達と楽しそうにしているのが気に入らないらしい。

「お前はガキか……」

呆れて呟いたところへ、カカシの不機嫌に気付いた事情のわかっていない子供が、いきなり爆弾を落してくれた。

「カカシ先生っ、まだイルカ先生と仲直りしてないのかってばよ!」

「こら、ナルトってばもう。余計な事言わないの!」

「だってさー」

まずいと思った時には遅かった。

「どういうこと……? 仲直りって――」

「恍けるなってばよっ。前は仲良かったくせして、最近は恐い顔で無視して――」

「――仲が良かった?」

そんな話は聞いていないとカカシはアスマの方を見る。

「仲が良いったって、上忍と中忍にしてはってくらいのモンだ。ソイツが言うほどの事は……」

「一緒に御飯食べに行ったりしてたってば。俺と一楽に行くのよりも多かったってばよ!」

空気を読めない子供は嫌いだとアスマは思った。
見ると既にカカシの顔に表情は無い。纏った冷たい空気に、余計な事を喋り捲った子供も流石に口を閉ざす。


(――すまん、イルカ……)


厄介な事になりそうな予感がしたが、アスマにはどうする事も出来なかった。







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