■ 月の魔法 2■ 「――記憶喪失? カカシ先生が……!!」 アカデミーでの勤務を終了した後、受付の仕事の為に管理棟に向かおうとしていた所を火影の執務室に呼び出されたイルカは、難しい顔をした里長からその事を聞かされて、思わず声を上げていた。 「声が大きいぞイルカ! 何の為にわざわざここへお前を呼び出したと思っておるのじゃ」 「す、すいません!」 ナルトの担当教官であるカカシ。 同時に元暗部という経歴を持ち、里有数の忍でもある人……。 そう――彼に何かがあれば、それは個人の問題ではなく、里の衰亡にも繋がりかねないのだ。 普段見せる好々爺然とした顔ではなく、里の要である長の威厳を垣間見せる火影に、イルカも事態の重要度を悟らない訳にはいかなかった。 「でも…何で俺なんですか……?」 そんな現実を否定したいとでもいうように、イルカはそう言って口ごもる。 しかし本当はイルカが聞きたいのはそんな事ではなかった。 ――何故カカシがそんな事になったのか。 ――怪我は大丈夫なのか。 ――そして、記憶は戻る可能性があるのか……。 何一つ分からぬ状態で、知りたいことはいくらでもあった。 しかしそれこそカカシの関わっていた任務の機密部分に触れる事であるのかもしれず、迂闊にそれらの疑問を口に出す事は出来ない。 だから何故――と。 こんな重大な事を、何故自分みたいな一介の中忍に明かしたりしたのですかとイルカは問うたのだ。 (――まさか、俺のカカシ先生に対する想いを――火影様は知っている……?) そんな訳があるわけがと思いながらも、全てを見とおしているような火影の前に立つと、次第に不安が湧き上がってくる。 そしてイルカは改めて、カカシに対するこの想いが禁忌であることを自覚した。 「お主を呼んだのは他でもない……」 そんなイルカの心を知ってか知らずか、火影は一転して静かな口調で話を始めた。 「カカシが記憶を失ったという事実を知るのは、今それを知ったばかりのお主を含めても、僅か六名しかおらぬ」 倒れたカカシを連れ帰ったアスマ、そして火影と御意見役の二人に、カカシの診察をした医者、そして……。 「関わった看護婦達には、既に記憶処理を行なっておる」 「――記憶処理……」 記憶処理の為に施される術は、決して簡単なものではない。それに上がった人数は間違い無く必要最低限のもので、そこに新たに自分が加わる理由がやはりイルカにはわからなかった。 「この事実は隠さねばならん……」 忍の里というその性質上、木ノ葉は多くの敵を抱え、他の里にも常に狙われている。 最近では更に元三忍の一人である大蛇丸の暗躍までもが噂に上っているのだが、その事を知らないイルカにしても、この事が他所に付けこまれる隙になりかねないというのは理解できた。 「幸い脳に損傷は見られんそうじゃ。原因はあくまで心因的な――あるいは何らかの術が半端にかかったか……。取り敢えずは今のところ自分が誰だかわからぬというだけで、日常の生活に支障が出るような事も無いらしい」 全生活史健忘――カカシは自分が誰でどこで育ったかなど、過去の一切の記憶を喪失してしまったという事らしい。 しかし寝食を始めとする日常の知識はある。そして自分の上忍としての立場や、数多くの術に関しても、説明すればすぐに納得したという。 「体が覚えていた……という事なんでしょうか……?」 「かもしれん。ともかく知識として詰め込める物は全てその頭に詰め込んだ。問題は、――実は人間関係の方でのう……」 カカシには決まった恋人がいない。親しい友人も無く、交友関係もほんの僅かである。 それは今回の場合幸いするかと思われたが、まずい事に現在カカシは下忍を担当していた。 「カカシ先生にとっては、ナルト達が一番親しい存在だったと云う事なんですね……」 それは意外でもあり、何となく心が暖かくなる事実だった。 そして自分がここに呼ばれた意味も、何となく理解できたような気がするイルカだ。 「そうじゃ――お主に頼みたいのはスリーマンセルに関する件での。これから暫らく身の回りの世話という事でカカシと共に暮し、あやつにナルト達三人の事、そして彼等に自分がどう接していたのかを細かく教えてやってはくれまいか……」 それは極めて重要な任務だった。そしてこの任務を実行出きる者もまた、極めて限られている。 まず記憶の無いカカシを利用しようとするような人間であってはならなかった。 そして口が硬く、尚且つナルト達三人に詳しくて、またカカシの事も知る人物でなくてはならないのだ。 確かにイルカ以外にそんな人間はいないだろう。それにここまで聞いた以上、イルカに断わる権利は無い。 ここで敢えて頼むという態度を取る火影を、イルカはずるいとは思わなかった。 何よりも、限定された期間とは云え再びカカシと親しく接する事が出来るかもしれないのである。 「謹んでお引き受けさせていただきます」 そう応えつつ、イルカは心の中で自分に言い聞かせた。 同じ間違いはだけは、絶対に繰り返すまい……と。 行なうのはあくまでカカシの失われた記憶の補助、そして目指すスタンスは少し親しいくらいの友人がいい。 (そうだ……この思いは絶対に知られてはならない……) カカシに特別な感情を覚える前の自分に戻り、そして再びあの気の置けない関係を取り戻す。 イルカは心の中で、そう強く決心した。 だが覚悟していた通り、この任務はやはり簡単にはいかなかった。 「――あ、いらないいらない。アンタもう帰っていいよ」 病室でカカシを引き取り家まで案内すると、玄関口で早くもカカシはそう言ってヒラヒラと手を振り、イルカを追い返しにかかったのだ。 記憶を失ったカカシに自己紹介をした時から既に、自分がカカシに固体認識されるほどにも興味を持たれなかったという事を、イルカはよくわかっていた。 相変らず片方しか晒されていないその青い瞳はイルカを写しても何の変化も無く、カカシにとっては通り過ぎる景色程にもどうでもいい存在だと云う事を、はっきりと教えてくれている。 しかしその事にそれ程ショックを感じていないのを、イルカは自覚してもいた。 (好意が嫌悪に変わるのに比べたら、無関心なんてのは何てことないな……) そんな不思議な余裕すらある。 もう一度最初からやり直せるのだと思うと、そんなカカシの素っ気無さすらも何となく嬉しくて、思わず顔がほころんでしまう。 いきなりニコニコしだしたイルカに、カカシは初めて無関心以外のものをその顔に浮べた。 へんな奴……――と。 そんな評価すら何だか楽しくて、イルカはいつになく強引な手段に出ていた。 「――そういう訳にもいかないんで、ちょっとお邪魔しますね――わっ、汚いっ! 掃除しなくっちゃこれは……」 「ちょっとアンタ何勝手に……」 勝手に上がりこんでテキパキと動き始めたイルカを呆然と見やるカカシ。 「カカシ先生ちょっと邪魔ですのでお風呂でも入っていて下さい――あ、ついでに風呂掃除もしといて下さいね」 「おい! ちょっと――」 「あ、何か食べたいものありますか? 今日は退院祝いに何でもカカシ先生の好きな物を作りますよ」 休む間も無く体を動かしながらのイルカのその穏かな微笑みに、カカシは圧倒された様に好物を口にすると、風呂場へと追いやられて行った。 (そうだよ、最初から嫌われてればこれ以上嫌われる心配も無いし。あとは少しずつでも役に立つと思われれば、それで充分じゃないか……!) 幸い家事も人にものを教えるのもイルカの得意分野である。 (普通に普通に……意識しない――そうすれば……) きっと以前のような和やかな関係を取り戻せる筈だと、イルカは期待し過ぎないように自分を戒めながら、腕によりをかけて料理に取りかり始めるのだった。 ********** 風呂に入るのは久し振りで、その事自体には別に異存は無い。 出てきた料理も男が作ったにしてはなかなか美味そうで、実際かなり好みな味付けに、それなりに満足もさせられた。 しかし……。 (う〜ん、どうしたもんかね……) 目の前でもぐもぐと遠慮も無く食い物を咀嚼している男の姿に、カカシは思いっきり途惑っていた。 「男に身の回りの世話をされるなんて、ちょっと、冗談じゃないですよ……」 火影三代目と名乗った人物に忠誠を誓う事に対しては、不思議と戸惑いは無かった。 体に沁みついた感覚がそれを善しと言っている。記憶を失っていても、目の前の小柄な爺さんが只者ではない事、そして尊敬するに足る人物であるという事は、何となくわかるのだ。 けれどそんな人物が相手でも譲れない事もある。 そしてカカシはどうやらそういった不満をはっきりと口にするタイプのようだった。 なのに火影の答えは「暫らくの間我慢せい……」の一言で……。 カカシは図々しい奴が嫌いだ。 頭の悪い奴も、人の生活に無遠慮にずかずかと踏込んでくる奴も……。 これも多分記憶を失う前から同じなのだろう。 現にカカシをこんな事態に追い込んだ火影も、お前には特に親しい者は居なかったと言っていた。 目の前にいる男は、カカシの嫌う条件の全てに当て嵌まる様でいて、しかし何だか違うような気もする――とにかく奇妙な奴だった。 「カカシ先生……?」 何も喋らないカカシを男は突然真剣な目で見つめ、かと思うといきなりその視線はカカシの前の料理に移った。 「それ、いらないなら頂きますね」と、最期に取っておいたナス田楽に手を出そうとしたので、カカシは慌てて箸を出す。 一口で詰めこんだナス田楽は美味かった。出来るならゆっくりと味わいたかったと思う程……。 ナス田楽など味噌をつけて焼いただけの簡単な料理だと思っていたのに、これは何かが違う。熱い味噌の味に香ばしい焦げの香りと味が加わり、懐かしいような甘さとピリッとした唐辛子の辛味が絶妙な味わいを生み出していた。 「あ……」 残念そうにナスの消えた皿を見る男……。 行動は唐突だが、動きはどうも鈍いようだ。 実際階級も中忍で、あらゆる意味で自分より格下なのははっきりとしていた。 (なのに、何で上手く追い出せないのかね〜) それどころかこの男の醸し出すまったりとした空気が、既に当たり前のような気すらしてきている。 特にやることも無いしやりたいことも無いから、男が何かを言い出すと取り敢えず従ってしまったのがいけなかったのか、いつの間にかすっかりと馴染んで、当たり前のようにそこにいるのだ。 「任務に復帰するまで三日ほど猶予があります。ですから今日はもう休みましょう」 手作りの杏仁豆腐を味わっているとそう言われ、そこで改めてこのイルカという男が任務でここにいる事を思い出した位だった。 (まあ、どうでもいいけどね……そんな事) 任務ならそれを果たせば消えるだろう。どうしても鬱陶しくなったら追い出せばいいだけの事。 「布団を敷いたら歯を磨きましょうね」 いわれるままに自分の分の布団を敷き、男と並んで三分間じっくりと歯を磨く。 こうして深く考る事も無いまま、男二人の奇妙な同居生活は始まったのだった。 |