■ 月の魔法 ■














蒼い月が見下ろしていた。
冴え冴えとした銀の光を放って。










 「どうしたんです、イルカ先生……?」

振り向いた視界の中、その月と同じ銀色の光を放つ人は、そう言って笑った。

写輪眼のカカシという二つ名でも呼ばれる得がたい一人の忍の笑みに、 時が止まった様にイルカはただ見惚れてしまう。

同じ男で……本当なら言葉も交わせないような雲の上の存在で……。 ナルトを介して親しく付き合う様にはなっていたけれど、自分とはやはり、立場も里への貢献度も格段に違う。

――そう、自分などと並び立つのが不自然な程に、彼は特別な人だった。

忍として、そして一人の男として尊敬できる……そんな誰もが憧れる……。

 (ああ……―――)

月下に佇むカカシの微笑みに見惚れている自分に気付いた瞬間、イルカは自分が恋をしている事を自覚した。


――決して実る筈の無い、無謀な恋を……。


しかしこの夜を境にして、二人の和やかな交友関係は、突然に終わりを告げた。






     **********






「……はぁ」

溜息を吐くとその分だけ幸せは逃げて行くというが、けれど今のイルカは、逃げるだけの幸せも持ち合わせていない気分で、更にこれでもかと溜息を吐いた。

「おい、いい加減にしとけよイルカ。一応お前は受付の看板なんだからな」

隣に座る同僚が、呆れた様に注意してくる。

「何だよ看板って」

「お前のおっさん臭い本性を知らない奴等にとっては、何でも癒しの微笑みなんだとよ、お前の笑顔が。――くく…ちょっと笑っちまうよな」

おっさん臭いというあたりにはかなり引っかかりを覚えたイルカだったが、実際自分のようなただの平凡な中忍の笑顔に癒されるだなんだのというのは、かなり大袈裟で笑える話だった。

(癒されるって位の笑顔ってったら……やっぱりあの――)
そこで再び溜息の原因を思い出してしまい、イルカは凹む。

「――馬鹿みたいだ……とっくに嫌われてるってのに」

「ん? どうした」

何でも無いと同僚に返しながら、イルカは自分の現在の想い人であり、突然自分の事を毛嫌いするようになったあの蒼い目の上忍が、そろそろ報告にやってくる頃合だと、そっと入口を伺った。

嫌われているとわかっていてもその姿を目にしたい。
普段はのんびりとしているくせに、どこか猫科の動物を思わせるしなやかなその姿を――。
女々しいとは思っても、その想いだけは譲れなかった。

そんな同じ性を持つ相手に対して持つべきではないこの特別な感情が、カカシに嫌われているそもそもの原因だったのだとしても……。








「イルカ先生〜〜〜っ!」

可愛い元生徒の声が響くと同時に、ドキリと胸がはねたのを感じ、イルカは慌てて平静を装った。

(今日はナルト達も一緒か……それじゃあこっちへ来てくれるかも……)

ちょっと自虐も交えてそんな事を思う。

(生徒達をダシにするなんて――我ながら最低だな……)
でもナルト達の笑顔を見るのが嬉しいのも本当の事。

里の誇る忍びの手により磨き上げられていく荒削りの宝石達。結局中忍のままに落ち着いてしまったイルカには、限りない可能性を秘めたその若さは眩しいくらいだ。

「――カカシ先生? 何でイルカ先生の所に並ばないんだってばよっ」

けれど、露骨に自分の列を避け、わざわざ奥の並びに足を向けたカカシに、そんな懐旧とも羨望ともつかない感情ははじけて消えた。

そして残ったのは自分の上をただ通り過ぎた、カカシの冷えた視線の感触と、ナルト達の手前落ち込む事すらも出来ないでいる、強がりのちっぽけなプライドのみ……。

「馬鹿! ナルト行くわよ」

「さっさと来いウスラトンカチ」

「……なんなんだってばよ……っ」

ぎこちない笑顔を残し、会釈をして通り過ぎていくサクラとサスケ。
理由はわからぬまでも、現教官と元教師の間にある溝を感じ取っての事なのだろう。
何も聞かずに、何も気付かぬ振りをして、二人はイルカの元を離れまいとするナルトを、無理に引きずっていこうとする。

「ほら、ナルト。報告までが任務だぞ、早くカカシ先生の所へ行く!」

子供にまで気を遣われるとは我ながら情けない事だと、心の中で苦く笑いながら、イルカもまたナルトをそう促した。 
渋々といった様子を隠そうともせず、それでもサクラ達に続くナルトを笑って見送りながら、イルカは誰にもわからぬよう、小さく瞬きを繰り返した。

いい年して泣くなどとんでもない事だった。そもそもカカシとの間に何があったという訳でもないのだから……。

(そうだ。まだ、告げてすらもいなかったのに)

なのにその鋭敏な感覚でイルカの持ってしまった感情の意味を知ったのか、カカシの態度はイルカが自分の感情に気が付いたまさにその日から、一八〇度変わってしまった。

親しい微笑みは冷たい蔑視の眼差しに。

以前はからかうような軽い言葉を紡いだ唇も、用件を告げるのさえ惜しいとばかりに閉ざされてもう久しい。


「こいつらはもうあなたの生徒ではない――俺の部下です」


以前そうカカシに諭された時も、突き放されたという悲しさと、ナルト達が自分の手を離れた事に対する一抹の寂しさを感じたりしたものだったが、それでも嫌われたとまでは感じなかった。
諭す言葉は厳しくとも、あの時は確かに感じられた温かなもの――それが今のカカシには無い。
いや、カカシはあの時と変わらず、ナルト達の可能性を信じ力強く導いてくれている。
変わったのはやはり、イルカに対する態度なのだというべきだろう……。

「……はぁ」

またもこぼれ落ちた溜息に、同僚は気遣うような視線を寄越すが、もう何も言わなかった。







     **********







「カカシ――お前、一体何を考えてる……?」

それは責めるというよりも、アスマの純粋な疑問だった。

「さっきの事もだがな、最近のお前は何かおかしいぞ……? イルカの事といい……―」

現在二人は任務中である――いや、目的だった任務を無事に終え、里に帰還しようとして夜の森を駆けている所だった。

「――関係無いよ」

刃にも似た冷たい視線が共に返ってきた事で、アスマの疑問は益々深まる。
すごい勢いで流れていく景色にも息一つ乱さずに、二人は更に加速しながら会話を続けた。

「何も無くていきなり態度を豹変させるのかよ……お前は」

覆面越しにもわかるカカシの端整な容姿に浮き足立ち、その名声に羨望を隠せない奴らに比べたら、アスマは多少はカカシの事を知っている。

「強さや力にしか興味の無かったお前が、中忍の、それもアカデミー教師のイルカなんかと親しくし始めたと思ったら。今度は手の平を返した様に無視……とはな」

イルカの何が気に入らなかったってんだ――そう吐き捨てるアスマを、カカシは殺気すら滲ませて睨み、そして、すぐに竦めるようにして肩の力を抜いた。

「俺がたかが中忍をわざわざ無視してるっての? 馬鹿らしい……もう用が無くなったから近づくのを止めただけだよ……」

確かに下忍を担当した事の無いカカシにとって必要な情報を、イルカは持っていたのかもしれない。前を向いたカカシの横顔からは特に何の感情も読み取れず、考え過ぎだったか……と、半分位はアスマもその言葉に納得する。
けれどやはりどこか釈然としないのは、イルカに対した時のカカシの態度があまりにも露骨であり、それでいてはっきりとイルカに何を告げるのでもなく、ただ避けるだけというらしくない遣り方をいつまでも続けているからだ。

そして今回の任務では、これまでにないような平凡なミスまで犯している。

最近のカカシは全くらしく無かった。あの程度の敵の術など、これまでのカカシなら発動すら待たずに全てを終わらせていた筈だ。

「お前……何を見た……?」

最期の敵は幻術使いだった。そしてその敵が術を完成させる直前、カカシは確かにその動きを鈍らせた。

それこそ敵の術が不発だったから良かったものの、もしもまともに発動していたら一体どうなっていたか……。


「――カカシ?」

気が付くと横にカカシの姿が無かった。
慌てて足を止め振りかえったアスマが見たのは、空を遮る葉と枝の隙間から覗いた丸い月を見上げながらぼんやりと佇むカカシと、その足元から伸びる、細くて儚い影……。

月明かりに浮かび上る白い面からは表情というものが一切抜け落ちて、透明な光の帯のなかで、カカシはまるで舞台に据えられた、良く出来た人形の様にすら見えた。

そしてアスマの目の前で、まさに糸の切れた人形の如く、ゆっくりと崩れ落ちていく。

「―――! おいっ」

アスマは我に返ると、慌ててカカシへと駆け寄った。


敵の今際の際の術は、中途半端ながらもしっかりとその効力を発揮したらしい。
結局アスマに背負われて里に戻る事となったカカシは、その後三日三晩目を覚ます事無く、死んだように眠り続けた。




そして漸く意識を取り戻した時、カカシは自分に関する記憶の全てをきれいに失っていたのである。