■ 月の魔法 5■ 気を失ったカカシを背に負い、イルカはただひたすら夜を駆けた。 写輪眼のカカシが記憶を失っている事実は、誰にも知られる訳にはいかない。 ましてやこの里の誇る稀代の忍が里で倒れただなどと噂になれば、それはたちまち他の里に伝わって木ノ葉の不利益となるだろう。 だからイルカは必死に駆けた。 必死に足を前に運び続ける今のイルカを苛んでいるのは、これまで感じた事が無い程の不安。 本当にこれでいいのか……と。 たかが中忍に過ぎない自分の判断は本当に正しいのか。 しかし躊躇えばその一歩の遅れが、カカシの命の危険に繋がるのかもしれないのだ。 (速く……速く――) 何十分にも思えた道程は、実際には一分にも満たないもので、無事火影邸に辿りつくと夜中であるにも関わらず直ぐに例の医者が呼ばれ、カカシの診察が行われた。 「突然…突然苦しんで倒れたんです。……大丈夫なんでしょうかカカシ先生は………」 異常は無いと医者は言ったが、死んだように眠っているカカシの顔を見下ろしながら、イルカは思わず不安を口にする。 「……わからん。掛けられた術の副作用だとしたら厄介じゃが……」 結局カカシはその夜目を覚まさず、イルカは一睡も出来ぬまま夜明けを迎える事になった。 そして朝になり、顔を洗うために一旦カカシの傍を離れ戻ってきてみると……。 「カカシ先生っ、目を覚ましたんですね――良かった……」 体を起しているカカシに驚き、同時に心からホッとしてイルカはカカシに駆け寄った。 良かった――本当に良かったと、カカシは確かに無事なのだと目に焼き付けたくて、イルカはにじむ涙でくもった目を拭う。 そしてまだどこか青白く見える顔にいつもの様に触れようとして……しかしイルカの伸ばした手は、見慣れた形の良い手の平に冷たく阻まれていた。 「カカシ…先生……?」 「何であんたがここに……俺は確か任務で……」 拒絶する手、イルカを真っ直ぐに見ようとしない瞳。 余所余所しいどころか、明らかな不信と不快が、その表情や態度の端はしには感じられる。 今イルカの目の前に居るのは、共に暮した子供のようなカカシではなかった。 夜はイルカを腕に囲って離そうとせず、昼も饒舌にイルカに対する権利を主張していた、あの執着心の強いカカシでは……。 「――記憶が戻ったんですね……カカシ先生」 イルカは静かに目の前の事実を飲み下した。思ったよりも冷静な自分の声を、何処か遠くに聞きながら。 幸せな時は終わってしまった。 あまりにも突然、そして簡単に………。 振り出しからやり直した筈の物語は、幸せに辿りついた途端再びリセットされたのだ。――いや、最悪のシナリオへと舞い戻ったと言うべきか。 一体この短い夢の時間に何の意味があったというのだろう。 結局は、何一つ以前と変わりのない現実が残っただけの事。 (もう、無理だ……) 再びやり直す気力はもうイルカには残っていなかった。何よりこれ以上傷つくのは、もう御免だと思った。 「――お医者様を呼んできます」 自然と事務的になったその口調に込められていたのは、諦めと、そして一つの決意……。 医者を呼び、火影に報告を終えたイルカは、そのまま家へ帰るとアカデミーに今日は休むという旨の連絡をした。 そして今日一日だけ気が済むまで涙を流す事を、自分に許したのである。 ********** 記憶を失っていたのだと云われても、当たり前だがカカシには全くピンときていなかった。 何しろ何も覚えていないのだ。 カカシの感覚では、昨夜アスマとの任務を終え、その途中迂闊にも気を失ってしまった――ただそれだけで、それはアスマへの大きな借りには違いなかったが、それ以上の事でもそれ以下の事でも無い。 ただどうも最近遠巻きにだが妙な目で見られる事が多くなり、記憶を失っていた間の自分が一体なにをしでかしたのか、それなりに気になっていたのも確かだった。 だが……。 「お主が記憶を失っていた件は極秘扱いとなっておる。迂闊にその事を口にするでないぞ」 そうはっきりと火影に釘をさされてしまえば、気にはなりながらもその件に関しては放っておくしかない。 ――カカシ先生っ、目を覚ましたんですね……。 ふと目覚めて一番に目にした笑顔を思い浮かべて、カカシは顔を歪めた。 「――関係無い……」 無意識に口をついたのは、切り捨てるような言葉。 「ただの中忍だ――あんなの気に掛ける必要なんて……」 繰り返し自分にそう言い聞かせるのは、自分の胸に留まってなかなか消えてくれない不可解な固まりが、今も何かを必死に訴え続けているようで、それが酷く苛つくから……。 イルカとの出会いは、ナルトという複雑な事情を抱えた一人の子供を介したものだった。 子供という得体の知れない生き物と付き合っていくのには、ある意味キーパーソンとも云える存在だったし、カカシとて最初からイルカに対して苦手意識を持っていた訳ではない。 いや、最初は親しい同僚達が不思議がるほど、上手くやっていたくらいだ。 会えば挨拶は欠かさず、くだらない立ち話にも律儀に付き合って。 酔ってふにゃりと笑う顔を肴に、酔えない酒に興じたりもした。 ――いつからだったろう、そんな笑顔が酷く不快なものに感じられるようになったのは……。 苛立ちに胸のむかつき――遠くで見知らぬ男達と話しているのを見かけただけで、病気か何かのように顕著に表われてくる不快のシグナル。 カカシはあいにく嫌なものを我慢するほど、殊勝な性格はしていない。 だから笑い掛けてくるイルカを無視する事に躊躇いはなかった。 目を合わせなければ苛立ちは起こらない。 話さなければ、その声さえ耳にしなければ、心の平安は簡単に取り戻せた。 それどころか、自分を不快にさせたイルカが無視されて悲しそうに項垂れる気配は、どこか心を浮き立たせるものすらあって、敢えて期待をさせてから突き放す事もあった。 ――けれど最近のイルカはどうもおかしい。 カカシが近づいても緊張する事が無くなったし、カカシが無視をする前に、向こうからさり気なく避けてくる。 だから最近思い出すイルカの顔は、目を覚ました時に向けられたあの笑顔ばかりだった。 (俺には笑いかけなくなったくせに、他の奴には……) 自分以外には変わらず向けられているのであろうあの笑顔――そんな想像にすらざわめく心に更に苛立ちをつのらせながら、 戦場で沁みついた癖か廊下を猫の様に足音もたてずに歩いていたカカシは、前方の踊り場に苛立ちの原因ともいえる男の気配を感じ、思わず気配を断ってその踊り場から見えない位置で足を止めていた。 気配はその男――イルカのものだけでは無い。そしてイルカはその他の気配に囲まれて、明かに困惑している様子だった。 「……――って、……らこいよ」 「何お高く…――が―。カカシと………やった――」 問題のイルカの声は聞こえない。それでも途切れ途切れに聞えてくる会話に耳をすますと、どうやら話は自分に関わる事のようだった。 (―――…) 勝手に話題にされるのは馴れている。 そんな事で一々カカシも不快にはなったりしない。 我慢できなかったのは、男達からイルカへと向かう言葉に含まれる、その淫猥で下卑た好奇心の色だった。 (――関係無い…) ただの錯覚だとそんな気持を否定するカカシの耳に、今度はイルカの声がはっきりと響いた。 「――貴方がたが口にしているのは、カカシ先生に対する侮辱です。訂正してください!」 明かに何か難癖をつけられているようなのに、イルカの口調は意外にも冷静なものだった。 怒りを露わにしていたが、こんな状況になるのは初めてではないとでもいうような落ち着きぶりも伺える。 (俺がなんだっての……) 何だかよくわからないまま、ここで初めて自分がに話題にされている事に眉をひそめるカカシだったが、しかし男の一人が口にした次の言葉を聞いた瞬間、そんな事はどうでもよくなっていた。 そしてカカシは隠れて聞き耳を立てていたのも忘れ、その場に飛び出していたのである。 ********** 狭い廊下の道幅を足でさえぎられるというふざけた仕草で足を止められたイルカは、次いで背後に感じる二つの気配に、待ち伏せられていた事を知った。 イルカが見知らぬ(時には見知った)男達に囲まれるのは、これが初めての事ではない。 少し前まではナルトに関しての事が多かったが、最近ではカカシに関係した難癖をつけられる事の方が、圧倒的に多くなっていた。 カカシが記憶を取り戻し、イルカに対する態度を三たび豹変させてから、事情知らない周囲は、様々な想像と推測を巡らしたらしい。 そしてその中でやはり一番多かった結論は、「写輪眼のカカシにイルカが捨てられた」というものだった。 当然だろう。カカシの突然の饒舌ぶりが意外であっただけに、この変化もまた上忍の気紛れだろうと受け止められるのは極自然な成り行きだといえた。 多くはそれに振りまわされたイルカに対する同情。 しかし嘲笑もまた、決して少なく無い。 何度か囲まれ、或いは呼び出されて、イルカはカカシとの事を繰り返し揶揄された。 実の所、中にはカカシの後釜を狙っての接触もあったりしたのだが、イルカが鈍い為かその気持は全く通じてはいない。 だからこの日待ち伏せされ廊下で囲まれた時も、イルカは「またか……」と溜息と共に思っただけだった。 私闘は禁止されているから、相手も滅多に暴力に訴えてくる事は無い。 しかしだからといって傷つかない訳ではないし、言葉は時に十分に人を傷付ける凶器となる。 ましてやカカシの事を考えないようにする事で、心の平安を保っていた今のイルカにとっては、ただ放っておいてももらえないこの状況はかなりつらいものがあった。 「――何をお高くとまってやがる。カカシとはもう何回もやったんだろうが……っ」 ――聞き流していれはじきに飽きる。 それはわかっているのだが、イルカにはどうしてもこの男達の言葉を無視することが出来なかった。 自分のことは今更何を言われようと構わない。 だが自分のせいでカカシの名声が汚されるとなれば話は別だ。 足を引っ張るような事はしたくない。何よりこんな噂をもしカカシが聞いたらと考えると、心の底からぞっとした。 「貴方がたの口にしているのは、カカシ先生に対する侮辱です――訂正してください」 思わずそんな言葉が口をついていた。 しかしイルカのそんなささやかな反抗など、結局男達に油をそそぐだけだけで……。 「とぼけるなよ、見たって奴がいるんだ。お前が朝方カカシの家から出てくるところをな……」 (見られて――まさか?) 決定的な事実を付きつけられ、イルカはくらりと血の気が引く思いだった。 しかしそれでも敢えて否定しようと、眉をすがめて口を開く。 しかし言葉は紡がれぬまま、イルカは思わぬ人物の突然の出現に、呆然と声を無くす事になる。 「――どういう事だ……」 突然現れたカカシの口から出た疑問――イルカを囲む男達の一人が言った言葉に対するものだろうそれは、しかし明かにイルカに対して向けられていた。 「は、はたけカカシ!」 「――なっ、どうして」 無様に慌てる男達。 だがイルカはその誰よりもはっきりとした驚きを顔に浮べて、避けることで忘れようとしていた男の顔を、呆然と見つめていた。 「カ、カカシ…先生……っ?」 「今の話……どういう事? アンタと俺が同じ家からって――」 驚くばかりで疑問に答えようとしないイルカに、焦れたようにもう一度同じ疑問を口にするカカシ。 「――あ…俺任務が……」 「お、俺も行かなくちゃ……」 カカシの意識がイルカだけに向かっているのを悟ったのだろう。これ幸いといい訳にもならない言葉を残して、男達は立ち去った。 そして残されたのは睨むような強い視線でイルカを見据えるカカシと、泣きそうに顔を歪ませたままのイルカの二人だけ――。 最初に動いたのはやはりカカシで、いきなりイルカの腕を掴むと無言のまま歩き出す。 「カ、カカシせ……」 なかば引きずるようにしてイルカが連れてこられたのは、廊下の突き当たりにある資料室だった。 ガタンッ 突き飛ばすように部屋の中に投げ出されたイルカは、備え置かれたテーブルにぶつかり、絶望的な思いでカカシに向き直った。 カカシは明らかに怒っている。 何に――? それは勿論記憶を失っていたカカシとイルカとの間にあった事に対してだろう。 当然だ。カカシは異性愛者で、例え覚えてないにしてもそんな事実があった事さえ許せない筈。ましてや……。 (――ただでさえカカシ先生は、俺の事を嫌ってるのに……) 滲みそうな涙を耐えて、イルカは自分を傷付けるに違いないカカシの言葉を待った。 しかし、カカシはイルカを睨みつけたまま、信じられない行動に出た。 「な、何をっ」 「――黙れ」 腰ほどの高さのテーブルに張り付けられるように圧し掛かられ、イルカは混乱する。 「止めてくださいっ、カカシ先生……!」 カカシが一体何のつもりなのかがわからず、とにかく逃れようとイルカは暴れに暴れた。 しかし逃げようとすればする程に、カカシの拘束は強くなる。 「やっ――……っ」 ビリッとチャックを壊す勢いでベストが外され、床へと落された。 そしてカカシの執着の跡が未だに生々しく残った鎖骨から腰にかけてが、イルカを嫌っている筈の今のカカシの前へと晒される。 嫌悪を浮べているだろうカカシの顔を見たくなくて、イルカはぎゅっと目を閉じた。 しかし覚悟した言葉も暴力も、いつまでたってもイルカへとぶつけられる事はなく。 ……ぽた… ぽたた 「………?」 冷たい雫が肌ではじける感触に、恐る恐る目を開けたイルカは、見上げた先に表情もなく無防備に涙をこぼすカカシを見た。 「カカシせんせ……」 涙を流す程に自分が嫌いか――とまでは、いくら卑屈になったとしても流石に思わなかった。 ただ、カカシの涙を見るのは初めてだと、こんな時だというのに見惚れそうになっている自分にイルカは苦笑する。 手首を掴んでいた手には、もうイルカを押さえるだけの力は無い。 自由になった手の平で、イルカはカカシの白い頬をそっとくるむようにして優しく触れた。 ピクッ―― 瞬間、まるで電気に触れたかのような激しい反応がある。 けれどそれでもカカシはイルカの手を振り解こうとはしなかった。 「何で――」 まるで自分が泣いている事が理解出来ないといいたげに、不思議そうに首を傾げたカカシの中に、イルカは失ったと思っていた愛しい子供の姿を見たと思った。 それ以上カカシに言葉はなく、イルカもまたカカシの気持をわざわざ言葉で確認しようとは思わない。 ――カカシ先生はもしかしたら俺の事を、嫌ってなどいないのかもしれない。 それだけがわかればもう十分で……。 何故突然冷たくなったのか――自分を拒絶する背中に何度も問い掛けたその疑問も、縋りつくような抱擁に、あっさりと溶けていく。 「貴方が好きです……カカシ先生」 禁忌だと縛めていた筈のその言葉。 自然にその言葉を紡ぎだした唇に、カカシの無言の唇が、何よりも饒舌に重なってくる。 変わらぬ抱擁とその温もりに、自分が何も失ってなどいなかった事を、イルカははっきりと感じ取っていた。 ********** 「――で、誤解のとけた俺達は永遠の愛を誓いました……めでたしめでたし――……という訳で、だからアスマ、今後イルカ先生に話しかけるには俺の許可が必要だからな、勝手に話したら殺すぞ!」 聞いてもいないのに二人の馴れ初めとやらを物語調で聞かされ、そう宣言されるに至って、アスマの頭に浮かんだ言葉は……。 (………こいつはガキだ、ひねくれまくったただのガキ――) ガキ――そう……まさにその一言に尽きた。 イルカを見るとイライラする。あってはならない衝動を感じてしまう。 だからイコール苦手なのだとカカシはずっと思い込んでいたらしい。 その挙句に記憶を失った自分自身に嫉妬して、ようやく想いを自覚したというのだから、それにすっかり振り回されてしまった形となるイルカは憐れだった。 そしてそんなイルカの作った心づくしの弁当を自慢され、日々二人のじゃれ合うようなイチャイチャぶりを見せつけられている自分は、さらに憐れだとアスマは思う。 カカシが記憶喪失だった事を知る数少ない相談相手として、アスマはカカシだけでなくイルカからも色々と事情を聞かされていた。 だから誰が知らなくともアスマだけは知っている。 未だにイルカは紆余曲折の結果カカシと結ばれたと信じていたし、カカシもまた似たような事を言ってはいるが――。 (………んな遠回りする必要が何処にあったんだ) 単純で、本当に答えは簡単な事だった。 優しく微笑むカカシに見惚れ、イルカが想いを自覚したという満月の夜。同じその月明かりの中で恋の魔法にかかったのはイルカだけではなかったのだ。 図体ばかりでかくなり常識を知らずに育った男もまた、本人は気付かずとも、ほんのりと頬を染めた中忍に見惚れて、しっかりと恋に落ちていたのである。 恐らくは生まれて初めての――本当の恋というやつに。 |