□ 立ち待ちの恋 □ ずっと行く末を気にしていた教え子―――うずまきナルトが、ようやく 下忍として認められ上忍師を得たとき、イルカは喜びと少しの不安に 複雑な顔になった。 上忍は、忍の中でも傑出した存在だ。 一般人から見れば『同じ忍』でも、実力の差は一階級上がるだけで天と地。 笑えるぐらいにかけ離れている。 生まれ持った才能と、それを磨き続けることで特異な技を持つかれら。 大きな声では言えないが精神に問題を持つ者もいる。 火影が直々に選ぶ上忍師、まさか間違いはないだろうが、何人もの上忍と 間近で接してきたイルカは、一抹の不安を抱かざるを得ない。 特にナルトの上司になったはたけカカシは、色々と噂に彩られた 人物だったから。 その業績についても、私生活についても。 お手つきでないくの一はいないとか、里にいるときは花街の女のところを 転々としているらしいとか、冷酷、冷静、冷徹と三拍子そろった冷血人間で、 暗部でも恐れられている、とか。 血も涙もない殺しをするとか―――まあ、そういったようなことだ。 こういう噂はやっかみ半分の作り話がほとんどだろうけれど…。 噂の多さは、それだけ嫉妬されている実力者の証だ。 でも半分と差し引いても…いや三分の一としても、カカシのそれは 多すぎると思う。 イルカが人間的なものを疑うには充分なくらい。 だから初めてはたけカカシと顔を会わせたとき、イルカはひどく緊張していた。 カカシが、その秀麗な顔を晒して、にっこりとイルカに微笑むまでは――――。 ―――――だいじょうぶですよ。あいつらは、俺がしっかり見てやりますから。 ―――――ナルトもね。心配無用です。あいつはいい男になりますよ。 力強い声音と、信じられないほど優しげな微笑。 ほんとうにこれが、元暗部の忍のまとう空気だろうか。 信頼の証拠のように、隠した顔を見せて色の薄い唇をほころばせて。 そのすべては、イルカの強張っていた気持ちを解いた。 最期の試験でなにがあったのかは知らない。けれどもカカシの確信に満ち た口調が、イルカは涙が出るほど嬉しかった。 なんだ。いいひとじゃないか。 それどころか、素晴らしい―――すごいひとじゃないか。 何年経っても、里の人間が九尾に対して拒否感を見せるのは変わらず、 いつもナルトは迫害を受けてきた。イルカには理解できず、憤ってナルトを かばう度にイルカもまた蔑まれて、何度も悔しい思いをした。 極めつけは、ナルトの卒業試験の事件だ。 同僚で個人的な付き合いもあったミズキの本心を知り、イルカは傷ついた。 ショックだった。 またなのか。まだ、なのか。 いつになったら、ナルトを認める人間が現れる…? それ以来、ナルトに関わる人間を無意識に警戒してしまう自分がいた。 ――――だが。 眼を丸くしていたのを、ゆるゆるとはにかむような笑顔にしながら、イルカは わずかに見える、カカシの弓形になった右目を見つめた。 凝っていた気持ちを吹き払われたような爽快感が胸に踊っている。 このひとはナルトのそのままを見てくれるひとだ。 先入観に囚われたりしないひとだ。 カカシの人間性を思い込みで疑っていた自分が急に恥ずかしくなった。 ああ。このひと、すきだな。 その瞬間、土に水が沁み込むように自然に―――あたたかな気持ちが広がった。 ……『あたたかな気持ち』だって? そんな馬鹿な。 後に振り返ってまさかと笑い飛ばした。 だってそんな―――まさか。ありえない。 イルカとて忍だ。戦地で上官の伽の経験くらいある。けれども同姓相手に 恋愛感情を抱くことなどなかった。 普通はそうだ。 イルカはそうは思えなかったけれど、抱き合うなら女より男の方が具合が いいと公言する忍もいる。身体だけの関係なら珍しいことではない。 だけれど、心も含めて―――好きだとなると。 一緒にいたいと思ったり、相手のことを知りたいと思ったり、自分を知って ほしいと思ったりする衝動は――――…。 それ以上考えるな、とイルカのどこかが警告を発していた。 やばい。やばいと思う時点でもう肯定したも同じか? わかっている。わかっているけれど、まだ大丈夫だ。 どうせこの先、距離が縮まることもない相手だ。これ以上近付かなければ、 気持ちはゆっくり冷めていく。 そのくらいは経験がある。だからどこかで安心していたのに、しばらくして 火影から言い渡された任務は、受付所での勤務だった。 イルカは冷や汗を覚えた。 これはまずい。本気でまずい。だって受付に座っていたら、毎日顔を合わ せることになってしまうじゃないか! それでも「俺がいる時間に報告書を出しにくるとは限らないし」と足掻いて みたが、無駄だった。 きっちりばっちり、カカシは毎日イルカのシフトの時間にはちあわせた。 来るとやはり、知り合いという気安さもあってかカカシはイルカに報告書を出す。 ついでにナルトたちの様子も話してくれて―――好意がどんどん膨れ上がるのを、 止めることなどできるはずもない。 カカシはただ、生徒の元教官が心配性で、だから話しかけてくるだけなのだと ――――わかっていたけれど、嬉しさは誤魔化せなかった。 気が付けばカカシがやってくるのを心待ちにしている自分がいて、イルカは頭を 抱えた。 カカシは気配を悟らせない。初対面の時もそうだったが、戦地での癖が抜けな いのか今でも存在を感じさせないほど巧妙に気配を消す。 受付所に現れると、びくりと固まる忍が多かった。それは『写輪眼のカカシ』が いることより、敵の出現に動物が毛を逆立てるのと同じ、反射的なものだ。 カカシが来ることに気付けなかった―――その瞬間カカシは殺そうと思えば 自分を殺せた、という事実に総毛立つのだ。 けれど、なぜか―――――イルカには、カカシがやってくるのがわかる。 気配を察しているとはイルカ自身も思わない。それでも何故かわかる。 第六感としか言いようがないが、それでもわかるのだ。 本来なら驚嘆されるが、イルカは誰にも言えずにひそかに落ち込んだ。 カカシに対してだけは獣並みに鋭くなっていると判っても、全然ありがたくない。 泣きたくなった。 同姓に恋したと認めることは―――イルカにはできない。 俺はそんな人間じゃないはずだ。 偏見はないつもりだけれど、まるで自分が弱くなってしまったようで、 自分の知らない人間になってしまったようで、どうしても素直に受け入れる ことができない。 カカシのことは好きだ。好意を持っている。 いいひとだし、飛びぬけた力を持つ忍として。 (ああだから、笑いかけたりしないでくれ! 顔が赤くなっちまうんだ) もっと深く知り合いたいと思うのは当然だ―――それぐらい魅力あるひと なのだから。 (色白いなあ…日焼けとかしないのかな…) 友情に近いものを勝手に抱いてしまっている。もしかしたら、それよりも少し 強い気持ちかもしれないけれど。 (いい声っての、あるんだな。美声ってのか? 耳に残るような…) ―――憧れだろう。自分の持ち得ないものへの。 カカシの笑顔にどきりとし、低い声音に鼓動が速くなるのを意識しながら、 イルカはひたすらそれを無視した。気のせい、気のせいだ。 だって気のせいじゃなかったら…どうしたらいいのかわからなくなる。 ぼんやり物思いにふけることが多くなった。 忍で鍛えた自制心だったが、だんだん布が擦り切れるように気持ちが抑えきれな くなるのを感じていたある日。 それが完全に瓦解したのは―――カカシが、女と寄り添いながら歩いているのを 見かけたときだった。 イルカは動けなかった。 愕然と眼を見開いたまま、ほんとうに身体が固まってしまった。 一緒に思考も固まった。 カカシは相変わらずの猫背だったが、豊満な肢体のくの一は腕を回して しなだれかかっていた。しきりにカカシを見上げて話しかけ、楽しそうに頭を 肩口に押し付けている。 息ができなかった。呼吸とか、眼が乾いて痛いだとか―――そんなことは 忘れてしまって、ただ無理やりに捻じ曲げられたような身体の痛みを感じて。 どうしよう。 どうしよう―――こんなに苦しくてどうするんだ俺は。 大して知りもしないひとなのに、これぐらいのことで衝撃を受けるほど、 カカシの存在が大きくなってしまっていたなんて思わなかった。 身体が震える。 もう見ないふりはできない。 こんなに胸が痛いのに。 誤魔化せない気持ちに、イルカは思わず涙した。 慌てて物陰に逃げ込んで、誰にも悟られないよう声を殺して泣いた。 今まで、泣けるほど好きになったひとなんかいない。 堪えていた想いが溢れ出したようで、涙はなかなか止まらなかった。 次の日、飄々とやってきてイルカに報告書を差し出したカカシに、いつもの ように朗らかに接することはできなかった。 自然と浮かんでくる笑みは、愛想笑いのように顔に張り付いたおかしなもので、 「イルカ先生、今日は疲れてるんですか」とカカシは首をひねる。 なんでもないと無理に口の端を上げてカカシを見送り、ぎこちなさに気付いた 同僚の気遣うような目線にも笑って首をふりながら、イルカは静かに決意した。 カカシ先生に、告白しよう。 じんわりと安堵が、同時に隠しようもない刺が胸にわだかまった。 嫌悪されてこの先、気安く会話することがなくなっても―――想像すると 身を切られるように痛いけれど―――ずっとこのままでいるよりはマシだ。 この気持ちは、自分では静められない。 ならばカカシに斬り捨ててもらおう。 またカカシが他の女性といるのを見かけて、胸がつぶれるような想いを抱えて 泣くのはいやだ。惨めで、つらくて、……それもこれも全部、イルカがカカシを 好きだからだ。 (そうだ―――俺はカカシ先生が好きなんだ) 初めて、イルカはそれを認める。 恋を認めて―――――終わらせることを決めた。 |