□ 餌付け □ どうしてうみのイルカと付き合うことになったのか、と問うと、カカシはこう答える。 ―――餌付けされちゃったんだよねえ。 何故はたけカカシと付き合っているのだ、と尋ねると、イルカはこう答える。 ―――餌付けされちゃったからです。 ※ 読書に必要なもの、と訊かれて、ある人は「座り心地のよい椅子」と答えるかもしれない。軽くつまめる菓子、と言うひともいるだろう。 カカシにとってのそれは―――適度な雑音だ。 うるさくない程度のざわめきの中で、ゆったり本を読む。趣味らしい趣味のないカカシにとっての最高のしあわせがそれだった。 そんなわけで、かるい騒音を求めてカカシが辿りついたのは、忍者アカデミーの校庭が見下ろせる位置にある、とある樹の上だった。 陽光に照らされ風に揺れて、木の葉がみどりの色を深くうすく、濃くあざやかにと千変万化する、極上の場所。 甲高い子供の声も、一定の距離をおくと、なんともはや長閑というか平和この上ないというか、微笑ましい日常そのもので、いたく気に入った。 さらに小鳥の声だのが絶妙な自然の和音を奏でるとくれば、もう言うことはない。 いい気分になって、つい居眠りすることもしばしばだった。 マスクを下ろして本を顔に伏せる。額宛も首まで下げてしまえば、すっかり眠りのスイッチが入る。 うとうとと、まどろみに浸っていると、珍しくごく近くに人の気配を感じた。 里の人間が使う道からは少し離れ、アカデミーの敷地内からは外れているから、滅多にひとなどやってこない。意外に思いつつもどうせすぐ去っていくだろうと知らぬふりを決めこんだ。 アカデミーの方からやってきた誰か――気配のぐあいから忍と知れる――は、迷いのない足取りでまっすぐカカシのいる樹の下までやってくると、根元の木陰に腰をすえ、なにやらごそごそやりだした。 (……あ。ウインナのにおい) 美味そうなにおいに、ひくひくと鼻が動いた。 ふと顔にかぶせていたイチャパラをずらしてみれば、日がまさに中天である。 (昼飯か。――うわ、手作りっぽい弁当) カカシの犬並みの嗅覚は、まるで目の前にあるように弁当の中身を悟ってしまう。玉子焼きと茹でたブロッコリー。ひじきの煮物。白飯にかかった甘い肉味噌。簡素だがうまそうだ。 どれ、と下を覗けば、忍服の男がひとり、飯をぱくついていた。 持参の水筒には茶が入っているのか、湯気がのぼる熱そうな茶をずずと啜っている。 両手で水筒のフタに注いだ茶を飲み、はー、と満足げだ。 ジジくさい仕草だが、朴訥そうな男にはそれが似合っていた。 ―――いいねえ、平和そうで。 気の抜けた豹のように枝に寝そべりながら、見るとはなしに、男が平たい弁当箱を空にしていくのを眺めた。だんだんカカシも腹が空いてきたが、なんとなく、いま移動するのは躊躇われた。 おそらく中忍の男だが、いくらなんでもこれほど近くでカカシが大っぴらに動けば気が付くだろう。 遠慮する必要などないけれど、ピクニックのようにのんびり昼食を楽しんでいるところに、いきなり上忍の自分が現れて水を差すのが、なんとなく嫌だった。 隣に年頃の女性がいれば、それはまさしく絵のような、という風景。 (…うう。でも美味そう) 食欲という本能に睡眠欲という本能が押し負けて、涎を垂らしそうになっているカカシの前で、男はきれいに飯を食い、デザートのつもりなのかメロンパンまで平らげて、ようようとアカデミーの方へ去っていった。 カカシがすぐさま飛び起きて街の定食屋に駆け込んだのは言うまでもない。 ※ (お、来た来た来た) 男とはち合うのはこれで5度目だ。 いつもアカデミーの方からやってきて、同じ方向へ去っていく。やってくる時間も大体決まっているので、おそらくアカデミーで内勤をしている忍だろうとカカシは当たりをつけていた。 頭のてっぺんで結んだ黒髪。鼻っ柱に一文字の傷のある、精悍な顔立ち。 わりといかつい顔なのだが、表情が加わると途端にやわらかい印象になる。 満腹して眠そうなときなどは、すっかり間の抜けたふう。 男は外で食うのが気に入ったのか、雨の日以外は連日やってくる。 そして調子っぱずれな鼻歌を歌いながら去っていく。 意外に大食いで、この間はデザートにリンゴを三つも食べていた。メロンパンよりはマシだが、多すぎるのもどうかと思う。 観察日記をつけられるなと苦笑いするほど、カカシもこの場所に日参していた。最近はたいがい夜に任務が入っているから、寝に来ているようなものだけれど。 いつものように飯を食う男を眺める。 このがっしりした男が手ずから作っているのかどうかはわからないが、さりげなく手がこんでいるメニューだ。 今日のおかずにはカカシも好きな茄子があった。揚げ茄子の煮びたし。 (……なんでこのひとの弁当って、こんなに美味そうなんだ) 怠りなく添えられた刻みショウガがにくい――食欲をさそう彩りである。 ああせめて一口、とか身もだえつつも、樹と同化した気配はそのままなのがさすが上忍というか。いちおう上忍というか。 その他はほとんどストーカーだ。カカシも自分で笑うしかなかった。 (でもねえ。なんか、気分がいいからね) 同性の食事風景で心がなごむ――なんだかねえ、という気はするが、事実だからしょうがない。 しあわせそうに箸を咥える忍を見て、毎日カカシがほんわかしているのだと知ったら、上忍の同僚はどんなマヌケ顔をするだろう。 そろそろ食事が終わるかというころ、 (――――あ) カカシが気付いたと同時に、男も顔を上げた。 んなあ。 飯のにおいにつられてか、猫が伺うように男を見つめていた。―――正しくは、男の手元を。箸の先には、鮭の切り身がある。 目線は逸らさないが、じっと動こうともしない猫に、男はちょいちょいと手招きをした。 猫はぴくりとも動かない。 (ムリだよ、あんた。野良はそう簡単には懐かない) 冷めた目であくびをしたカカシは、次の瞬間、どきりと鼓動を跳ねさせた。 「―――来いよ。怖くないから」 それは囁きにも似た。 心がくすぐられるような声。 ぞわぞわと全身に細波が広がって、呼吸が止まる。 初めて耳にした男の声は、外見から想像もできないほど柔らかく澄んでいた。 固まっているカカシなど、当然ながらそっちのけで、男は猫に笑いかける。 くっきりした目元がとろけたように細くなる。 「やるから。……おいで。ほら、おいで」 (―――え。うわ。なにそれ。アリなのそれ) ――そんな笑顔で、そんな声って、アリなのそれ? 反則でしょう。 うわ、ちょっと待って、待て待てやめてよと声にも気配にも塵とも伺わせず、硬直したままカカシは叫ぶ。声にならない声で。 なにが待てなのかやめてなのか自分でもよくわからない。ただこのままでいると何故かものすごくマズイ気がした。ものすごくマズイ。やばい。だから目を離せ――と必死で訴えているのだが、固定されたようにカカシの視線は男から外れない。 手招きする男と―――おずおずと数歩近寄る猫と。 跳ね上がった動悸をコントロールできなくて苦しい。そんなにまでうろたえるのは何年ぶりだろう? 鮭の切り身を、男から少し離れた場所に置かれて、猫はだっと駆け寄りまた距離をとる。安全な位置で切り身をぱくついて、ぺろりと顔を舐めた猫は、まだ残っている鮭にじいっと目をやる。男は笑って――今度はもう少し近いところに、切り身を置く。 また胸が苦しくなりながら、カカシは食い入るようにその光景を見詰めていた。 すこし考えたようすで、男が、今度は残っていた茄子も箸につまんだ。 (―――あ) 茄子。揚げて煮びたしにした茄子。―――それも、その猫にあげちゃうの? 情けない話だ。 ほんとうに、情けない話だが―――そう思った瞬間、カカシは知らぬうちに身を乗り出していた自重につられて、ころりと枝から滑り落ちていた。 突然目の前に降ってきた忍に、男はびしりと固まっていた。 みっともなく背中から落ちたりはしなかったが――そもそも落っこちたこと自体、信じがたいほどみっともないけれど――犬の“お座り”の格好で着地したカカシも、冷や汗をだらだら流しながら石のようになっていた。 よりにもよって男の真正面。 一直線につながれた視線は、どうにもこうにも切り離しようがない。 いっそ石になってしまいたい、とカカシは思った。 鮮やかな緑の色彩につつまれた木陰。小鳥はちちちと鳴いている。 (―――誰でも何でもいいから助け舟をだせ!) 居たたまれない「間」から逃げだしたいカカシの祈りが通じたかどうかはともかく、終わりは訪れた。 騒音に驚いて逃げ出した猫が、ふたたび「んなあ…」と近くの木の根元から顔を見せて。 奇跡的に箸を取り落とさず、つまりは茄子も落さずに停止していた男が、ぱちぱち目を瞬かせて猫を見遣り、おもむろにカカシに目を戻す。 奇妙な動物を見るように、しげしげとカカシを眺め、顔を赤くした。 何故だかその照れたような笑いで、カカシのどこかがぷっつり切れ―――口が勝手に、 「んなあ」 と鳴いていたのだった。 2005.5.26 最近カカイルを書いてもイルカカっぽくなる…ええこれはカカイルです。カカイルったらカカイルです。へったれなカカシですええ誰がなんといおうと。 突っ込んでるのはカカシじゃ! |